寂しいビール事情――はかなくも繊細な泡
イギリスやアイルランドのビールには、日本のブランドはもとより、大陸ヨーロッパのものとも一風異なった雰囲気がある。
一般的にビールは、上面発酵のものをエール、下面発酵のものがラガーと称されるが、日本の大手ブランドで作られ、消費されるビールはピルスナー・タイプと呼ばれる、すっきりとしたラガーが圧倒的に多い。一方、イギリスやアイルランドでは、濃厚なエールにこそ、その真骨頂があるという感じがする。
エールと一口に言っても、色の淡いペール・エールからブラウン・エール、そしてポーター、更には黒々とした色合いのスタウトなど種類が豊富である。
イギリスやアイルランドにはパブの奥深い文化があり、それは
日本でも、今世紀に入ってからであろうか、アイリッシュ・パブのブームが巻き起こり、あちこちで関連店舗が増えて行った。それらの店で出される、ドラフトのスタウト――よく冷えて細かな水滴を凝結させたグラス、そこに満たされた漆黒の液体と表面を覆う真っ白でクリーミーな泡――その繊細で何とも深い味わいは、居酒屋でとりあえずビールなどとジョッキのラガーを煽っていた僕らにとって非常に新鮮だった。
黒ビールと呼ばれるものは明治のころから日本にあったようだが、長らくあまりメジャーではなかった。それが好転してきたのは、思うにやはり、あのとろりとした泡の効能も随分大きかろう。
ギネスなどの缶ビールで、クリーム状の泡を作る、フローティング・ウィジェットなる球体を仕込んだ製品も、ここ二、三十年の間に出回るようになった。
しかし、何と言っても、パブのサーバーで生まれる泡の方が一段と繊細で上質な気がする。
日本で飲まれるアイルランドのビールは何をおいても既述のギネスだが、僕はそれよりも、アメリカの友人に教えてもらったアイリッシュ・エールのキルケニーが好みである。スタウトよりも軽めの飲み心地で、濃く深い闇が溶け込んだ夕空のような赤い液体を、白くきめ細やかな泡が覆っている。
日本のアイリッシュ・パブでも、提供する店はちらほら見られたが、近頃ではとんとお目にかかることが出来ない。調べたところ、数年前に輸入が打ち切られたようである。何とも残念なことだが仕方がない。
もう一つ輸入停止となって残念なブランドに、バス・ペール・エールがある。ラベルに描かれた赤い三角形がトレードマークの瓶ビールであり、日本では大手のアサヒが輸入を手掛けていた。そのためか、例えば、同じく英国から輸入のニューカッスル・ブラウン・エールなどより価格帯が手ごろなのが嬉しかった。
アサヒと提携する浅草の神谷バーで、年配の紳士がバス・ペール・エールのボトルと電気ブランのグラスとを並べ、一人静かに佇んでいるシーンなどもよく目にしたものだったが、今では同店の酒のリストから外されている。
なお、今調べたところ、先程述べたニューカッスルも現在輸入停止状態らしい。また、アサヒは以前レーベンブロイの輸入も手掛けていたが、こちらもバス・ペール・エールと同時期に輸入停止となり、現在では別の会社が、前回触れたとおり、韓国製のものを輸入している。
どれもこれも何とも残念な話であり、現下の日本の経済状況、のみならず、精神文化の状況をも反映しているように見えて、複雑な気持ちになってしまう。
さて、三回にわたって今の日本のビール事情の一端に触れてみたが、いかようにも寂しい限りと慷慨せざるを得ぬのは、僕が単に年を取ってしまったせいであろうか。
現下の若い人たちが、かつての僕らのように、夢や憧れに胸を膨らますことが出来るような、わくわくする時代、そして、本物に手軽に触れることが出来る時代が再び到来することを切に願う。
<了>
随筆集 ― 方寸の三千世界 ― すらかき飄乎 @Surakaki_Hyoko
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