本物の正月
いよいよ今年も押し詰まってきた。思えば、数年来のコロナ禍に加え、ウクライナでは戦争が始まり、エネルギーの不安、円の大幅な値下がり、諸式の高騰など、相も変わらず嫌なことが重なった一年であった。
食品の産地偽装も次々と発覚した。熊本産と称する外国産の浅蜊、産地を偽り不正に輸入された蜆、名品とされる鳴門若布を海外産若芽が僭称するケースもあった。また、最近では、鹿児島の業者が十数年にわたって、外国産の洗浄された牛蒡にわざわざ泥を付け、宮崎産や青森産として出荷していたというニュースが話題になった。
一消費者としては憤懣やるかたないが、これらの食品の産地と偽装された地域、或いは偽装を行った業者の所在地の多くは、僕の郷里である九州を始め西日本であったことが余計に心中に応えた。牛蒡の偽装を行った鹿児島の業者は、国産牛蒡を出荷してもむしろ赤字になるほどで採算が取れず、従業員の生活もあるためやむなくといった弁明を行っていた。もちろん偽装を正当化し得る理由では毫もないが、その言訳に、僕は一片の真実を見た気がした。
数十年低迷する日本の景気、数年前までのデフレに象徴される、廉くなければ売れない商品と、それに反比例するようにじりじりと値を上げる原材料価格や流通費その他の諸経費。
経済的な疲弊は、周知のとおり地方においてより顕著であり、僕自身の実体験とも符合する。
郷里に帰省するたびに目の当たりにする光景――錆びたシャッターが下りたままになっている店舗、無人となって朽ちかけた家、人は住んでいても後期高齢者の夫婦又は独居老人の世帯――
街を歩けば、人通りは著しく少なく、少子化により小中高校が、次々と統廃合による閉鎖の憂き目に遭っている。校舎の跡地やかつての運動場などを草が覆い、剰え不法投棄のゴミなどが散らかっているのは、限りなく寂しく悲しい。このような負の印象を抱かせる眺めは、どんどんと増殖を続けており、とどまることを知らない。
諸賢ご承知のとおり、「衣食足りて礼節を知る」という慣用句がある。もとは管子、牧民の「倉廩實則知禮節、衣食足則知榮辱(
このような世情だからこそ、新しい年はめでたく迎えたい。それも、嘘偽りのない、日本らしい正月を迎えたい。
そう思うのだが、実はこちらもはなはだ覚束ない。
まずは正月飾の注連縄。スーパーはもとより、昔ながらの商店街の花屋などに売られているものも、多くは中国産である。しかも、材料自体がそもそも稲藁でない。稲藁か否かなど、都人士には弁別がつかぬかも知れぬが、田舎育ちの僕の目は誤魔化せない。Webで調べたところ、何でも中国産の水生植物であるらしい。
これらの注連飾、“Made in China”と明記されているのもあるが、生産地が全く表示されていないものも少なくない。
それらは国産だろうか?
いや、そうではあるまい。「国産」と明記されていない限り、海外産と判断した方が良いのではなかろうか――まあ、僕の邪推かも知れないが、そう睨んでいる。
第一、材料からして稲藁ではない。“Made in China”と書かれている注連縄と同じく、得体の知れない植物であり、包装の様子や、ポリエチレン・パッケージの外から確認できる、同梱のシリカゲルの様子からしても、国産ではない匂いが大いに感じられる。
何より、日本の消費者心理の一般として、国産を歓迎し珍重する傾向顕著なるを鑑みれば、これほど海外産が蔓延する状況にあって、もし国産品であれば、生産者や販売者たるもの、その旨を大々的に表示しアピールしない訳がない。
また、ある注連飾には、こんな表示が小さく記載されているのを発見した。
“This product is produced in China original designed by ×× Co., Ltd (Japan)”
まあ、よくよく読めば、「この製品は日本の××社の意匠に基づき中国で製造されました」とあるので、正直な表示とは言えよう。しかし、人の心理というものを勘案して吟味すると、甚だ不誠実な書きぶりとは言えまいか。
そもそも、長々と記された文章を注意して読むというのは面倒な作業である。せいぜい注連飾を買うぐらいのことで、律儀にそんなことを行う消費者も多くはあるまい。それに、このような正月用の縁起物をわざわざ買おうと考えるのは、若者には少なかろう。多くは年配の、目も悪くなった消費者であろうから、細かな文字、しかも日本語ではない文字の羅列を読もうという気もなかなか起こるまい。
この英文の表示をさっと一瞥したところ最も目立つのは、おそらく末尾の“Japan”ではなかろうか。文中に埋没した“China”はどうも目立ちにくい。すなわち、この表示は、詳細を述べて誠実を装いながら、その実は、老境に掛った消費者の目を“ Japan”に誘導し「これ日本製なんだ」という勘違いを惹起せしめ、購買意欲を煽らんがための、巧妙なる策略なのではなかろうか。僕の目からはそう見えるのである。邪推であれば、甚だ申し訳ないことだが。
注連飾に加えて、鏡餅に関しても、別の意味において残念な事情がある。
僕が子供の頃、鏡餅と言えば、丸餅を二段に重ねるものであったが、現下のスーパーなどの店舗に陳列されているものは、プラスティックで上下が一体化された商品ばかり。なんとなく、手塚治虫のヒョウタンツギが髣髴する。この上下一体化構造のプラスティックの中身は、かつては、外側の形状そのままの餅が充填されていたが、現在では、小袋に詰め分けられた、小さな丸餅や切餅が数個詰められていることが一般のようである。
こんな紛い物のヒョウタンツギを歳神様に捧げるというのは、僕の心理からすると非常に申し訳ない。歳神様にしても、おそらくこんなものを鏡餅とはお認めにならず、そっぽを向いてしまわれるのではないか。
さらにお節料理にしても、残念である。
予約注文の写真を眺めたところ、見た目はごてごてと豪奢を装い、「素材や出汁にこだわった」などと仰々しい宣伝文句が踊っているが、どれも大して旨そうには見えない。しかも
こうしてみると、古式ゆかしいとは言わぬまでも、僕らの子供の頃、つい三、四十年前には当り前に近くに存在した、
今や、日本人らしく本物の正月を迎えようとするのは実に至難の業である。
僕の心を消沈させない、いささかなりとも本物らしい注連飾や鏡餅は、近所の商店街やスーパーには薬にしたくても置いていない。日本製の稲藁の注連縄と、きちんと餅を二段重ねた鏡餅を手に入れる、ただそれだけのことなのである。そのほんの小さな願いを叶えるだけのために、僕はクリスマス前から電車で幾駅も足を延ばしてあちこちを訪ね歩き、探索を重ねる必要があった。
さて、昨日は僕にとって仕事納めだったが、このご時世、早仕舞などということはなく、夕方まできっちりと働いて、帰宅後、門松、注連縄、鏡餅を設えた。
とは言え、庭付きの邸宅ならぬ、しがない集合住宅なので、松飾をするにも扉の両脇に立派な門松を立てるべき余地はもとより、小さな若松の一枝を括り付けるべき構造すら存在しない。仕方がないので、スチール製のドアにマグネットフックを上下に取り付け、そこに松の枝を紐で固定した。これを対になるように二本。それぞれの若松には、稲穂と紙垂をあしらった稲藁の輪飾を一つずつ掛けた。その際、生来不器用な僕のこと、指先を鋭い青葉にしたたか突かれて、非常に痛い思いをしたのは、例年どおりの吉兆である。
鏡餅については、三駅先の隣の市に所在するスーパーで手に入れた、紅白二段重ねのものを裏白の歯朶を敷いた上に置き、てっぺんには蜜柑を乗せて神棚の所に飾った。
通例であれば、一つずつラッピングされている餅の包装を取り去ってしまうところだが、今年はそうはしなかった。何としても、餅の黴を防ぎたかったからである。毎年、黴防止の工夫として、餅を焼酎で拭うなどの処理を行ってきたが、それでも
神棚には鏡餅のほか、お神酒としてお屠蘇を供えた。もちろん、そのお屠蘇のおこぼれを、夕食の際にご相伴にあずかったことは諸賢ご推察の通りである。
やれやれ、少々の苦労と葛藤はあったものの、少しでも正月らしい正月を迎える準備はだんだんと整いつつある。これで、歳神様がめでたく吾が家にお越し下されば幸いである。
<了>
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