マンビキは祟る
マンビキ、ハイオ、何のことかお解りになるだろうか?
マンビキと言えば、多くの方は「万引」、すなわち、商店で金を払わずに商品を盗む行為を念頭にされるであろう。しかるに僕が言いたいのは、さにあらず。
漢字にすると、マンビキは「万匹」「万疋」と書き、ハイオは「羽魚」と書くとされる。
もう、お察しになった方もあろうが、両方とも魚の名前である。
僕の郷里では、シイラのことをマンビキと言い、カジキのことをハイオという。
「万匹」「万疋」と書くのは、シイラがそれだけたくさん取れることを意味するとされ、「羽魚」はもしかしたらバショウカジキの大きな背びれを羽に見立てているのかも知れない。ただ、いずれにせよ、これら名前の由来について、僕は確たることは知らない。
ここでお話ししたいのは、それとは別の話題であるので、どうかご容赦願いたい。
僕の田舎は、九州の山側の地方なのだが、そこで育った僕がよく食べていた刺身と言えば、マンビキやハイオであった。
シイラは、ハワイではマヒマヒと呼ばれ、グリルやソテーにしたり、生のままポキにしたりして食べられるポピュラーな魚だが、日本ではあまりなじみがないように思われる。
思えば、故郷を出てから、店頭でシイラが売られているのを見た記憶は、ほぼ無い。美味しい魚で、「万匹」ほど獲れる魚であれば、流通量が少ないというのは、どうしたものだろう。今まで意識することもなかったが、どうも妙な気がする。
それが先日、あるショッピングセンターに入っている魚屋でシイラの切身が刺身用として七、八パック並んでいるのを見付けた。
シイラの刺身? シイラ? 珍しい。そして、懐かしい。
たちまち僕の脳裡には、子供の頃に食べていた、あのマンビキの刺身が甦るとともに、そう言えば、ここ何十年もそれを口にする機会が絶えていたことに、今更ながらにはたと気付かされたのである。
値段も、比較的大きな切身が三百円もしない。同じ大きさの鯛なら、養殖物でも二倍から三倍、本鮪であれば、七、八倍は下らないであろう。実に安い。
これならば、もう買うしかない。
切身の半分はその日の晩酌に、もう半分は醤油漬けにして翌日に残して置こう。
その宵は、久々のマンビキの刺身を、子供の頃と違って、大人の特権である日本酒と共に大いに堪能し、気分良く眠りについた。
そこまでは、実に良かったのだが……
その晩――夜中にふと目が覚めた。時計を見ると、零時半。
何だか、胃が重たく、胸やけがする。僕には逆流性食道炎の気があるので、食べ過ぎ飲み過ぎのせいかと胃薬を飲んでみたが、どうもあまり改善しない。それどころか、腹が妙に張って吐き気まで襲ってきた。
そのまま、便所に直行し嘔吐。さらには、下痢まで。寒気もする。
その後も朝まで、いったん横になりうとうとしかけては、また便所への繰り返し。
翌朝、便意はほぼ消えていたが、倦怠感がひどく、熱を測ると三十七度を超えている。
家人はしきりに休むように勧めてくれたが、その日はどうしてもやっておかなければならない仕事をいくつか抱えていた。ふらふらしながらも、無理を押して出かけ、何とか片づけてきた。ただ、その日の食事は、朝にココアを少し飲み、昼にジャムを塗ったパンをほんの一齧りしたのみ。それ以上のものは、とうてい体が受け付けない。
ひどい倦怠感と何とはなしの腹部の不快感は夕方になっても続いている。
仕事が終り帰宅するとすぐにシャワーを浴び、お粥を少しばかり口にした。そして、すぐに歯を磨き、そのまま寝室へ倒れこんだ。
それから十時間近く、比較的ぐっすりとした安眠の後、二日目の朝。ようやく倦怠感は薄れていたが、腹の方には何となく気になる感じが残っている。
二日目も終日、お粥などを食べて用心した。実に参った。
家人が調べてくれたところ、シイラは体表の粘液に毒があり、この毒の他にも、しばしば海中の腸炎ビブリオが皮膚に付着しているらしい。解体するときには、まず魚体を真水でよく洗うとともに、解体途中も包丁やまな板をこまめに洗浄するなど、細心の注意が必要で、それらを怠ると食中毒のリスクが高いとのこと。
さらに、温度管理をいい加減にして、常温に長時間置いたりすると、身に含まれるアミノ酸であるヒスチジンからヒスタミンが生成され、これも食中毒の原因となるらしい。このヒスタミンによる食中毒の例は、他にも鰤や鰯など赤身の魚でよく見られるという。加熱しても、ヒスタミンの毒性は消えないというので、注意しなければならない。
また別の情報によると、シイラを少量食べただけでは何ともなくても、たくさん摂取すると食あたりする場合もあるとのこと。たしかに、晩酌の卓上にあった刺身は、かなりの量であった。もともと家人は、普段から刺身をあまり食べない傾向があり、もっぱら僕がぱくぱくと胃袋へ収めたことは間違いない。
医者に診てもらったりしたわけではないので、僕の症状が、いずれの原因によるものかは分からないが、シイラという魚がさまざまな食中毒リスクを有しているのは間違いない。
かくなる次第で、翌日の楽しみにと思っていた醤油漬けは、もちろん一口も食べずに家人が早速廃棄。念のために、まな板や調理器具の洗浄、消毒、殺菌を行ったという。
後で聞いたところによると、あの晩、家人はシイラを全く口にしていなかったらしい。
初めは、醤油漬けをおかずにしてご飯を食べようと思っていたのだが、色々なことに取り紛れ、食事の際には、そのことをすっかり忘れていたのだそうである。食べ終わったのちに思い出したため、結果として、全くシイラを摂取せずに済んだのだという。
天は味方をすべき相手を選んでいるらしい。
このような顚末によって、店頭でほとんどシイラを見ないことも、シイラの身が驚くほど廉価だったことも、痛いほどに納得できた。
とにかく、マンビキはひどく祟る。郷愁に駆られて、安易に近付くと、危険極まりない。
万全の備えをおさおさ怠りなく、どうかご用心いただきたい。
<了>
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