豆撒きのはしご ―― 行事とコミュニティ

 吾が家の近所には、歩いて行ける範囲に、いろいろな神社やお寺、地蔵堂や祠などがある。

 先日はそのうちの三つの神社の節分行事に行ってきた。

 街歩きをしているときに、それぞれの神社の節分行事を案内するポスターを見かけたのだが、いずれも時間が二、三時間ずつずれていたので、家人と二人でそれぞれを廻ってみようということになったのである。

 豆撒きのはしごなどという酔狂に興ずる人など見たことはないが、人のやらぬことをやるというのは、「変り者」と呼ばるるを誉め言葉と承知する吾々二人組にとって、これほど愉快なことはない。

 まず一つ目の神社。ここは、神社というよりも地域の祠といった感じの小さなお宮で、普段は神職などのお姿を見ることはない。木々に囲まれた小高い、ひっそりとした場所にある。神社に向かう途中も、別の高台を経由して来たのだが、そこからは彼方に雪を被った富士の峰が遠望され、家人などはそっと手を合わせたりして、実にめでたい幸先である。

 神社には予定の時間の十分ほど前に着いたのだが、普段はあまり人気のない場所ながら、今日は珍しく道中から親子連れの老若男女が三々五々境内に向かう流れになっており、僕たち二人組もその中に紛れていた。

 参道の石段の上には、まだ学校にも挙がっていないような小さな子供が両脇に控えていて、参拝者一人一人に、何かを配っている。

「こんにちは、ありがとう」と礼を言って笑いかけると、子供の後ろに控えていたお母さんからは元気な挨拶が返ってきたが、子供の方は知らないおじちゃんから声をかけられ、はにかむように複雑な表情をして体をよじらせた。そのはにかむ気持ちは、僕自身の子供の頃を思い浮かべると実によく分かる。

 もらったものを改めて確かめると、「開運招福」と書かれた十センチ四方ほどの紙の袋で、中には昆布茶が入っているらしい。

 本殿に進んで礼拝らいはいしたのち、末社を巡っていたところ、何やら笛と太鼓の音が聞こえてきた。見やると、拝殿横の縁側で、十代と見える若い男女なんにょ数名が演奏している。その日は恰度土曜日だったので学校が休みなのだろう。何となくやる気がないような緩い雰囲気で奏でられる音曲というのも、奏者の年齢的な気分だとか、地元感だとかがあふれていて微笑ましいものである。

 拝殿前では、半纏姿の四十恰好の男の人が、ハンドマイクを片手に、

「年男年女の方は、いらっしゃいませんか。どうぞ、上に上がってください。こちらで豆を撒いていただけますので、どうぞ。それから、お子様はどうか前のほうに出てきてください。前のほうはお子様ということでよろしくお願いします――」などと、一生懸命に場を取仕切っていらっしゃった。この方が総代のような役の方であろうか?

 その他にも、地元の方々が数名、半纏姿で行事にかかるお世話をなさっている。

 ありがたいことである。

 僕らはこの神社のある地域には住んでおらず、氏子というわけではないので、一番後ろの方に控えて遠慮していたが、半纏を着た方があちこち移動しながら豆を撒いてくださったので、二人ともちゃんと拾うことができた。

 思えば、吾が家は集合住宅であり、自治会、町内会などというものには全く縁がない。それどころか、隣近所ですらどんな人が住んでいるのかよく分からず、顔を合わせれば挨拶を交わすぐらい。そもそも、顔を合わす機会自体、めったにないことであるし、通路やロビーなどで挨拶をしても、返事が返って来ずに無視されたような格好になることさえある。要するに、僕の住んでいる集合住宅は、多くの人が集まって生活をしていながらも、そこに社会性はなく、コミュニティの体をなしていないのである。

 現代であれば、このような人間関係はごく普通のことであろうが、この神社界隈は商店街ということもあり、昔ながらに近いような、人間同士のつながりが存続しているのであろう。

 子供の頃を思い返してみると、僕の郷里にも、このような確固たるコミュニティが存在していた。祭などの際には、総代が毎年持ち回りになっており、僕の父も総代を務めた年があったが、なかなかに気を遣ったり、時間や労力を取られたりする、骨の折れる厄介事のように見受けられた。

 濃い人間関係が支えるコミュニティというものは、勝手知ったる間柄における親身な人情という好もしい一面と、接触が多いだけに摩擦も多いという厄介な一面とがある。僕自身の心持からすると、そういう昔ながらの人間関係というのは、敬して遠ざけたいという思いの方が強く、隣近所も知らないような気楽な現在の生活が、よほど性に合っている。

 そうは言いつつも、このような豆撒き行事などには、恐る恐るながら後ろから顔を覗かせるのだから、勝手なものである。行事の準備や取仕切りなどの面倒からは体よく逃れつつ、ちゃっかりと楽しみだけを享受しているわけで、ありがたくも申し訳ない。つらつら考えるほどに、何とも後ろめたい気持ちになる。


 しかし、こんな手前勝手な人間の葛藤を、追儺の鬼はどのような気持ちで眺めていたことだろう。飛び交う豆に遣らわれるふりをしながら、皮肉な嘲笑を浮かべて去って行ったのではあるまいか。



                         <了>






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