第10話 安城家 その2
朝日は客間、というより離れで寝ている。
時間は午後11時。
朝日は仮次と竹継、一夜と共に夕食を済ませた後訓練をしようと仮次に持ちかけたが
「今日は兄貴と仕事の打ち合わせがあるから、今日くらいは休め」
と言われたので早めに風呂に入って寝ることにした。
数時間後、部屋の襖が音もなく開かれる。
仮次とアタッシュケースを持った竹継が部屋に入るが朝日が起きる様子はない。
仮次は足を止めて耳を澄ませる。
「......よく寝ているな。薬が効いているようだ。心音に異常もない」
「いつガス状の睡眠薬を手に入れたんだ?」
「兄貴とそれの話をする前からだ。」
仮次はアタッシュケースを指差す。
「ああそう」
呆れた竹継はアタッシュケースを床に置き蓋を開ける。
冷気が溢れ空気中の水分が白い煙と化してケースを覆う。
竹継がふっと息を吹きかけると煙が晴れ、その中に一本の注射器が置かれている。
仮次はしゃがみ込みそっと右手で摘まみあげ、朝日の布団の枕元に跪く。
布団を少しだけめくる。
朝日の首筋に指を当て、反応がないことをもう一度確かめると注射器の針を首筋に刺す。
さすがに朝日の体がピクリと動くが起きる様子はない。
仮次はそのまま親指で注射器内の液体を朝日の血管に流し込む。
注射器の針を抜くとその跡から血が一滴垂れるがそれを仮次はハンカチでそっと拭く。
竹継も仮次の隣に陣取り朝日の首元をじっと見つめる。
そして二人は注射器の跡がスーッと消えていくのを見守った。
竹継と顔を見合わせた仮次は指で注射の跡を押し、傷が塞がっているのを再確認した。
二人は侵入の形跡を残さず部屋から出る。
「成功してよかったな」
仮次は深く強く息を吐く。
「ふぅー。
これで朝日は大丈夫だな」
竹継は曖昧に頷く
「理論上はな。あれは彼女の血管に乗って体中を巡る。
筋肉や血管、骨や神経に至るまで自然治癒するすべてのものは半永久的にそこそこ自然治癒を加速させる。はずだ」
「過剰再生によるがん細胞化やエネルギー摩耗を防ぐためにそこそこの効果なんだったな」
「そこそこだから戦闘中に傷が治ったりはしないが、さっきの注射跡のように小さな傷は目に見えて直りが早い」
「そして強度の高すぎる訓練と組み合わせることで超回復の効果が、」
「それこそ理論上だ。いいか、無理なことはするなよ。まず様子を見ろ。」
竹継は振り返り、なぜか苦しそうに見える朝日の寝顔をちらりと見てふすまを閉める。
「俺ですら詳しい仕組みは知らん」
朝起きた朝日は上体を起こして伸びをする。
ゆっくりと布団から出ると寝具を整えてから寝間着の浴衣を脱いで座椅子にかける。
下着姿になった朝日は布団の横の床に膝を伸ばして座る。
足を閉じた状態でつま先を掴み、深呼吸をしながら足をゆっくり開いていく。
180度とはいかないまでも限界まで足を開いた後、いったん手を放す。
両手を右のふくらはぎに当てて上体を太ももに押し当てるように倒す。
左でも同様にした後、足を開いたまま体を前に倒す。
肘が床に着くまで体を曲げた状態になると足をさらに開いていくとともにさらに上体を床に着けていく。
額を床に着けた状態になった朝日は勢いよく足を閉じると同時に下半身を跳ね上げて逆立ちになる。
肘を少しずつ曲げ、額が再び床に着きそうになった瞬間腕を伸ばして体を跳ね上げる。
かかと落としを食らわせるイメージで体を回転させて足から着地しようとするが、回転が足りず背中から布団に落下する。
うっすらを汗をかいた朝日は大の字のまま布団の上で目をつぶり、たっぷり十秒深呼吸する。
朝日は足を上げた反動で立ち上がると再び浴衣を着ると用意をして大浴場に向かった。
その足取りは昨日よりも軽やかに見えた。
「これが現段階での朝日ちゃんの身体能力ね。
同じ年のころの仮次と比べても遜色ないわね」
モニターを見ていた仮次の母、安城一夜は二人の息子を振り返る。
安城家の男二人はモニターに背を向け壁を向いて立っている。
「それにしても乙女の部屋に忍び込むだけでなく監視するだなんて恥を知りなさい。
挙句の果てによく知らない薬品を了承も得ずに使用するなんて、
殺し屋の風上にも置けない卑劣な行為だと思わないの?」
「俺はそろそろ仕事が、」
「まだ立っていなさい。あれの調達元はあなたでしょう竹継。
夕子に知らせないだけ良しとしなさい。監査部が動けば当主といえども無事では済まないかもしれませんよ」
「わかったよ。メールだけはさせてもらうよ」
姿勢をそのままに竹継は携帯端末をせわしなく操作する。
「さて、仮次。私はあなたのことをわかっているつもりです。
だけれどもこれは明らかに度が過ぎていますよ。」
「そうは思わない。
覚醒状態であれが異常な働きをしないか経過観察をする必要があった。
元からある監視カメラでの監視はむしろ朝日のためだ。」
「......百歩譲ってそれはいいでしょう。怒られることが分かった上で私を呼んだのもいい考えです。
実際に画面を見るのが私だけになれば問題がないと考えたのでしょう?
しかし昨晩の薬品の注射。あれはどういう道理ですか」
「あれこそ朝日のためだよ、母さん。
朝日とは親子になる上で契約を交わしている。
朝日には復讐の権利があるがあのままではその権利を全うする前に死んでいた。
誰が忠告しても朝日は無理な訓練を止めない。
それならば無理な訓練を無理でなくする方法をとるのが朝日のためだ。」
一夜は椅子から飛び上がり仮次の後頭部を掴んで壁に叩き付ける。
割れた壁の木材の破片が仮次のあごや頬に刺さる。
連絡が終わったのか竹継が顔を上げる。
「母さん、仮次のいうことには一理ある。彼女の覚悟は母さんも聞いているだろう。だからこそ黙認したんじゃないか」
一夜は鼻を鳴らして仮次の頭から手を放す。
仮次は服や髪にかかった木くずを払いながら立ち上がる。
「あなたがそこまで言うなら朝日ちゃんのバックアップをしなさい。安城竹継個人ではなく安城家当主としてね。」
「わかったよ。もういいかな」
一夜はモニタの電源を落として追い払うように手を振る。
部屋から廊下に出て声が届かない部屋まで言った竹継は口を開く。
「やってくれたな仮次」
「......」
「俺に黙って母さんをモニター室に呼んだのは俺に朝日ちゃんのバックアップをさせるよう母さんに言わせるためだな」
「母さんに現状の朝日の能力を確認してもらう意味合いもあったが」
「俺を舐めるなよ。
義理とはいえ姪のバックアップはもちろんするつもりでいた。
だからこそ貴重なあの薬品を流したんだ。」
「俺個人では用意できる人員や施設には限界がある」
「それこそ裏路地の代表に頼め。かかわりは深いはずだろう」
「もちろん雄一にも頼んでいる」
竹継はいつの間にか手に持っていたナイフの切っ先を仮次の首筋に当てて言う。
「あっちこっちに首を突っ込むとこういうことになりかねないぞ」
仮次は竹継の方に一歩踏み出し、竹継のナイフを自分から首に食い込ませる。
「覚悟はしている。俺の望みがかなうなら後はどうなってもいい」
竹継は小さく笑いナイフを引くと懐にしまう。
立ち止まったままの竹継に構わず仮次は廊下を進んでいく。
「誰が忠告しても止まらないのは娘と同じだな」
竹継のつぶやきは誰の耳にも入ることはなかった。
「昨日今日は何の意味があったんですか」
後部座席に座る朝日は責めるような口調で言った。
「本当にただの顔見せだけが目的だったのですか」
「顔見せが一番の目的だったのは事実だ」
赤信号に差し掛かり仮次はバックミラー越しに朝日を見つめる。
「どうだった?殺し屋の名家は」
信号が青に変わり、仮次は目線を前に向け車を走らせる。
「一見普通の家ですね。会社を家族で経営していて、なぜか家の中に道場があるだけの。でも、」
朝日は口をつぐんだ。仮次は後を促そうとはせず車を走らせている。車の横の歩道で笑いながら歩く少年たちが窓から見えた。
「竹継さんの笑顔だけは別です。昨日、部屋に入ったとき足がすくんで動けなくなるかと思いました。なんなんですかあの人は」
「なぜそう思った」
「あまりに完璧すぎます。どう見てもただのいい人にしか見えませんでした。片手にナイフを持っていたのに。殺し屋というのは皆あのような人種なんですか」
「そこまで見えていたなら素質がある、というかそこまで見えていながらよく兄貴に近づけたな。安心しろ。兄貴みたいなのは別格だ。演技力だけでナイフの存在感を薄れさせるような化け物はそうそういないよ」
そう答えながら仮次は朝日の資質について確信を抱いていた。兄の演技を見破る観察力と物怖じしない精神性、いや彼女の場合感情性といったところか。狙い通り一流の殺し屋に合わせることにより朝日の資質が改めて浮き彫りになった。
バックミラーに映る娘を見ながら仮次は計画の手ごたえを感じていた。
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