第29話 旧世代の殺し屋
その老人は大きな岩の上に座り、釣り糸を垂らしていた。
「そろそろ出てきたらどうだ」
背後の藪がガサガサと揺れ、黒髪の少女が姿を現す。
「失礼しました。
あなたが伊豆流の師匠ですね」
「言葉を知らんな。まあそうだ。
で、何のようだ。」
「弟子の安城仮次について聞きに来ました。」
老人はそこで初めて後ろを振り返る。
「そうか。
道具を片付ける。少し待て。」
「仮次の師匠に会いたい?」
朝日は生徒たちを乗せたバスから降りると家には入らず、その足で安城家本家に向かい、当主の安城竹継に面会を求めた。
竹継が執務室に朝日を迎えると挨拶もそこそこに要件を告げられる。
竹継は机に散らばる書類をまとめて端に置くと、内線でコーヒーを頼む。
「はい。居場所を知っていますか」
「仮次には聞いたのか」
「いえ、聞きたく無いので」
竹継はため息をつくとタブレットの電源を入れる。
「仮次の師匠と言える人物は何人もいるが、存命でその上居場所の分かるのは一人だけだ。」
タブレットの画面を朝日に向ける。
「伊豆銀蔵。」
そこに映るのは右目に眼帯をした病院着姿の老人だった。
「凄腕のワイヤー使いだったが、最後の仕事で目をやられて引退した。
このレベルの殺し屋が引退する場合、普通はごたつくんだがこの負傷では他の組織も拾わないだろう、ということで今は山で隠居している。」
朝日のポケットの中の携帯が震える。
取り出して画面を見ると、地図と座標が送られていた。
「ま、会いに行くならよろしくと伝えておいてくれ。」
「糸使い、今風に言うとワイヤー術か?あれはもうほぼ廃れた技術だ。」
銀蔵は自分で淹れた紅茶を啜りながら言う。
「でも安城仮次は、」
「あれも主な武器はナイフで、ワイヤーはおまけだ。
断言していいが糸使いは俺が最後で、今の業界には一人もいない。」
紅茶を飲み干すと乱暴に急須を手に取る。
「なぜならワイヤーは屋内でしか使えない。引っ掛けるところが無いと巣も張れないからな。
おまけに手間がかかる。
一件あたりの報酬が下がった現代じゃ身につけるだけ時間の無駄だわな」
「では、安城仮次もその事情は知らなかった?」
「いいや知っていたさ。
その上で教えを乞いに来た。」
「何故?」
「......さぁな。
で、それを聞きに来たのか?」
朝日は冷めた紅茶を一気に飲み干す。
ごくりと喉を通るのは紅茶か生唾か。
「できれば手合わせを、」
そう言って座布団から立ちあがりかけた体勢で朝日は動けなくなる。
足だけではない。太もものベルトからナイフを引き抜こうとした両手も動かず、ナイフが二、三本畳の上に落ちる。
「な、何...!?」
銀蔵は朝日に構わずカップに紅茶を注ぐ。
「ワイヤーの弱点は屋内限定、準備の手間。逆に言えばそれを満たせばこれくらいはできる。」
銀蔵が口に含んだ紅茶を霧のように噴き出すと、何も無い空間に水滴が伝う。
「特殊なレンズを通してのみ視覚できるワイヤーをゆる〜く張り、獲物がかかるのを待つ。
ワイヤーが絡まっていることに気づかない獲物が動くたびワイヤーは絡まる。」
膝下の畳にまち針を刺して立ち上がる。
「そして術者がワイヤーを引き、ワイヤーがピンと張った時、獲物は初めて巣に捕われたことに気づく。
これぞ伊豆流『土蜘蛛』」
銀蔵が右拳を開くと自由になった朝日の体が床に落ちる。
「相手の棲家で手合わせなどするものではない。まあそう言うことだ。」
「こ、この技は仮次が使った『絡新婦』とは別の技......?」
「技っちゅーもんは『守』『破』『離』の三段階に分かれる。
ざっくり説明すると、
師匠から教わったものは『守』、
その技をアレンジしたのが『破』
修練の果てに到達したり、新しい発想で別の次元に進化したものを『離』と呼び、
別の名前の技に昇華する者もいる。」
朝日は藤虎組の事務所で同じように腕が拘束されたのを思い出す。
「『絡新婦』は糸の振動を読み取って相手の動きを把握する技だ。
仮次がお前に使った技は『土蜘蛛』の破、と言ったところだろう。」
「つまり......」
「技の名前をわざわざ口にする礼儀はないだろう?そういうことだ。」
「そうですか......」
ワイヤーが跡になっていないか手足をさする朝日を見ながら銀蔵は仮次のことを思い出していた。
もし『土蜘蛛』を即時性のある技に進化させられれば「破」どころか「離」の領域である。
しかし銀蔵から見て仮次という男は名より実を求める男。情報が流出するリスクを考えたかもしくは......
(案外、まだ「破」なのかもしれん。)
「で、改めて手合わせするか?」
「いえ、やめておきます。」
そう言いながら朝日が蹴り飛ばしたナイフは目に見えない壁に弾かれる。
「演技はそこそこだが、俺を騙せるほどじゃあないな」
銀蔵が右手首をくるりと回すと朝日の右手が天井に引っ張られ、その手から銃が落ちる。
「くっ...」
「まあここまでにしておくんだな。
勢い余って殺しかねん。」
思ったより腕が立つ、とは口には出さない。
「これを持っていけ」
玄関で靴を履いた朝日に、銀蔵が投げて寄越したのは手のひらサイズの黒い滑車のような器具。
「これは......?」
「俺の商売道具の糸だ。
見えず、切れない逸品だぞ」
「何故これを私に?」
「さあな。
引退してすぐ捨てるつもりだったが、なんとなく捨てられなかったんだよな」
銀蔵の目は朝日を見ていない。
おそらく渡す人は本当に誰でもよかったのだろう。
未練はないがそれをただ捨てることが出来なかったのだろうか。
それをファスナー付きのポケットに注意深く仕舞うと一礼する。
「早く帰れ。日が暮れるぞ」
伊豆銀蔵はその夜、十数年ぶりに2時間以上の睡眠を貪った。
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