5 希望のカード

「駄目だめダメ。ぜんぜんダメ。そんなの退部の理由にならない。灯里あかり、私に言ったわよね? 『欲張る』って。そう言ったじゃない。本当の意味で楽しいことをあなたは見つけた訳でしょ? 友達も後輩も先輩もいる。楽器もあって放課後の予定もある。あぁこんな世界があるんだな、って。カラオケ部って楽しいな、って。それなら乗り換えればいいじゃない。なんで大切な過去こと一つのために、楽しい現実ことを遠ざけなきゃいけないわけ? そんなバカな話ない! くだらない御託ごたく並べてないで、しっかり今を見据えてそのままここで突っ走りなよ。その方がずっと灯里らしい。そのついでに、大事な四年間でもなんでも取り返せばいいじゃない!」


「そんな都合いい話ない!」


「あるわよ! ディレクターになればいい! 本社に出入り出来るようになれば私みたいに違った方に考えが変わるわ!」


「なれるもんならなりたいよ! でも――頑張ったけど無理だったの! 二週間だよ?! わかる?! ディレクターに推薦してあげるとか言っときながら、アシスタントもくそもないじゃんあんなのていのいいパシリじゃ――っはう! はあっ!? なにっ!? なんで!?」


 話の途中で、凛子りんこは灯里の額に勢いよくでこぴんを食らわした。

 その細長い人差し指が、つつ、と灯里の顔をゆっくりと下る。鼻筋をなぞり、上唇にそっと重みが加わった。口が塞がる。


「うるさい」


 あまりに明確なその四文字を、灯里はにわかに受け止められない。混乱した。


(――ウルサイ、ウルサイ……え、うるさいってうるさいってこと?)


 そんな身もふたもない話あるだろうか。いや、口は蓋されている訳だけれども。


「もごもご」


 そこそこの力で唇を塞がれている。そして退がろうにも退がれない。後頭部は下駄箱でどん詰まりなのだ。灯里は眉で遺憾いかんの意を表明してみせるが、そんなところ、凛子はまるで見ていない。


 凛子は半歩、灯里に身を寄せる。

 距離は至極近い。

 凛子の――、


 凛子の息遣い。

 ふっくらした唇。尖った鼻筋、あご。細い眉。凛子の端正たんせいな顔立ち。


 長い睫毛まつげ

 はっきりした二重、

 黒く縁取られた切れ長の眼、

 水晶玉みたいな二つの目玉、


 そこに穿うがたれた真っ黒な瞳孔に、灯里は目線をからられる。

 その美貌びぼうに吸い込まれそうになる。思考の自由を奪われる。


 そんな圧倒的美人の口のが、不敵に吊り上がる。


「予言してあげる」


 この距離でかろうじて聞き取れる声。吐息に混じらすささやき声は、同じ十六歳とは思えない、なまめかしい声だった。


 灯里はじりと後ずさる――真後ろには退がれないから、ややカニ歩き気味に、横へ向かって遠ざかる。

 唇から離れた人差し指は、それでも迷いなく灯里の顔の中心を射抜く。



「十秒後、あなたは<自分の意思>でコラボ室に戻る。 ――必ず、ね」



 はっ!

 失笑した。


「付き合ってらんない」


 馬鹿じゃないだろうか。

 そんなの、十秒以内に私がここから立ち去ればそれで仕舞しまいだ────


 と思いつつ、


 十秒、と言われて気は急いた。

 目の前のわずらわしい人差し指を払い除けると、灯里は再び靴入れに手を伸ばした。


「じゃぁね。バイバイ」


 別れを告げてローファーを引きり出すと、ぽろっと一緒に何かが落ちてきた。


 ――ゴミ?

 ……にしては大きく、それは平たいカード? のようなものだった。ラブレターとか。そんな時代でもない。


 腰を折って拾い上げる。


「――……うそ?」


 それを見て手が震えた。両手に持ち直し、食い入るように見る。

 体裁ていさいはまるで学生証だが、厚みがある。

 そして、左の枠。枠内に、己の顔写真が収まっているではないか! これは高等部へ進学する際に願書を提出したときの証明写真。

 それからこうも書いてある。


 ――『織部灯里おりべあかり』。


 中央にでかでかと記された名前もしっかりと、自分。

 これは――こいつは紛れもなく灯里のために発行されたカードであるが。

 何より、ロゴが! ロゴが入っている!

 カードの右半分を占める「ORCA/noteオルカ・ノート」の青いロゴマーク! 下の方に控えめに印字された、入・館・証! の三文字!


「これってもしかして……もしかしてもしかしてもしかして……!?」


「ふふ。おめでとう」


「やだ……うっそ!? 本当に? うそ、私ついに……」



 ――ディレクターになっちゃった!?



「厳密には『助っ人』だけれどね。――さて、灯里がはしゃぐから予言の十秒は過ぎちゃったけど……どうする?  一人カラオケ行く? それとも私と一緒に、コラボ室に戻る?」


「戻る! 凛子と一緒にコラボ室戻る! 全然いい! さっきのは、ほら。あれ、ちょっとうんざりして弱音吐いただけだもん。やる! 私、ディレクターになる!」


「はい。よくできました。じゃぁさっさと靴をしまって。そしてあなたの過ごした無意義な四年を、死に物狂いで取り返しなさい」


「あはっ」


 天に喜び地に喜ぶはしゃぎっぷりで、たまたま通り掛かった用務員さんが何事かと歩みを緩めた。

 灯里は満面の笑みで用務員さんに会釈して、そんな灯里に、凛子は呆れ気味に言った。


「言っておくけど楽しいだけじゃないわよ。クリエイターはせいぜい三日で一曲を仕上げているけど、ディレクターという役職は、その特性から一日に十数曲を捌くこともあるの。

 それに――これは前にも言ったことだけれど――ユーザーとの距離も一つ近くなるわ。歌い手の立場になって、音源をもっともっと歌いやすくする事が、ディレクターの役目。つまり、一曲にかける時間的ウェイトは軽くなるけれど、責任はずっと重くなる。難しい仕事なの。けど……そうね。クレームに関しては灯里はずっとやってきた事だから、もしかしたら私たちの誰より適任かもしれないわね」


 灯里はもうあまり聞いていなかった。

 カードをかざしてみたり、裏返してみたり、目も心も奪われている。


「はいはい、わかってるわかってる」


 片っぱしから頷くものだから、首筋がおかしくなりそうだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る