2 どうしようもなくトラウマ

「…………こんばんは〜」


 そろりと教室へ入って挨拶するなり、先生はどぎついアイメイクで何もしていない灯里あかりめつけた。


 うっ。

 足に根が生えたように動けなくなる。脳裏をかすめる四年前の恐怖。


 ――そう。四年前。

 こいつこそが四年前、灯里を追い込んだ厚化粧の鬼婆――その人である。


 ベンガル猫のように凛々しい顔つき。刃物のように尖った眼。唇のグロスは薄桃色で、分厚く塗るものだから顔の角度を変えるたびにてかてかとひかめいた。

 栗色の長髪は肩のあたりからゆるいウェーブがかかり、真っ白な胸元の上でくるんと毛先をまるめる。ミルク色のブラウス。鎖骨は全露出。これ見よがしに作った谷間。真っ黒なフレアスカート。


 アップライトピアノを背にもたせた先生は、ピアノ椅子に片膝を立て、鍵盤ぶたに後ろ肘を突いてふんぞり返っている。

 そんなポーズだとパンツは見えてしまっているのだろうが、注目してはいけない。だって――


 降り注ぐ眼光。

 一升瓶でももたせてやれば似合うだろうが、彼女の右手には――銀色のペン。

 しかもあれはスライド式の、授業なんかで黒板を指したりするのに使うやつだ。

 その用途は判り切っており。

 灯里を成敗するためのお仕置き棒でもあり、くるっと回せば灯里の顔に落書きをする油性ペンにもなる。


 諸悪の根源。

 トラウマの元凶。

 バイオリン教室など他にいくらでもあるだろうに、けれど灯里は自らここを選んだ。 

 母などは事情を知っている手前いくらか気を揉んだが、灯里が『やり直したいから』と告げるとそれ以上何も言わなかった。

 たぶん勘違いをしている。

 灯里が『やり直したい』のは『先生との関係』ではなく、『四年前の喧嘩の続き』だ。

 ケリをつけたい。この女にも、自分の過去にも。

 本当は今すぐ刺し殺してやりたいくらいなのだけれど、しかし学びたい技術も確かにある。死んでしまうと教えてもらえないから、


(我慢、我慢)


 睨み返したい目を、灯里はそっと背ける。

 睨んだところで喧嘩になるだけだし、するとまた灯里もバイオリンを叩き壊してしまう。

 それでは駄目なのだ。


 でも――


 灯里は教室の隅にしゃがみ込み、ハードケースを開いた。


(――でも。九月が近づけばその首は保証しないから)


 その時が来れば、絶対に牙を剥いてやろうと思っている。



 調弦チューニングを終え、手近の譜面台に教本を立てたときだった。


「今のペースで九月に間に合うと思うか?」


 唐突に尋かれ、灯里あかりはその意図の読めなさに戸惑った。

 むろん学園祭のことを言っているのは分かる。先生には、前もってそれを目標にしているむねを伝えてあった。

 でも、だからこそペース配分なんてものは任せきりであったし、灯里としてもそこだけは信頼して諾々だくだくと教えを受けてきたのだけれど。


 先生はピアノにっくり返る尊大なポーズのまま、身動き一つせずに灯里の言葉を待つので、


「…………なにか問題ありました?」


 灯里はおずおずと返した。

 その瞬間、先生はぴくりとまぶたを痙攣させ、そしていきなり立ち上がった。

 ひっ、と灯里は喉の奥で小さく悲鳴を上げる。


(――まずった、まずった、まずったまずったまずった……!)


 殺してやるとか。

 牙を剥いてやろうとか。

 そうやって息巻きつつ、何だかんだ言いながら結局灯里は怖いのだ。それこそがトラウマである。


 その場で居竦いすくまり、どうしようもなく怯える灯里に、先生は険しい表情のままずかずか詰め寄って来る。

 あっという間に距離が埋まった。

 先生は灯里より頭一つ分背が高い。

 頭上から、まるであなでも覗くようにぐっと寄せられる顔。額と額が触れ合う距離。


 灯里は首をすくめ、息を殺した。


「今のペースで、九月に、間に合うと思うか?」


 お世辞にも女性的とは言えない、重い声。同じ質問を重ねられた。

 灯里は急いで頭をめぐらせる。


「……どう、かな……いける……と、思ってます……」


 ひどくか細い声で、最後のほうは自分でも何を言っているのか分からなかった。


「ふうん」


 ようやく先生は灯里を覗き込むのを止め、銀色のペンをもてあそぶように何度か伸び縮みさせると、


「あっそ。よかったじゃん」


 と、身をひるがえして再び背後のピアノの方へ戻っていった。

 ピアノの上のペットボトルに手を伸ばすその後ろ姿に灯里が安堵したのも――つかの間。


「パターン演奏、Ddurデードア


 先生は透明の飲料水を一口あおると、いきなり指示を寄越した。


「――っ! はいっ!」


 灯里は慌てて譜面台に乗せた教本をめくった。


 こう、反射的に体が動いてしまうのはどうにかならないものか。あまりに滑稽だ。

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