3 小学生みたいな罵り合い
ドから始まる音階、レから始まる音階、ミから始まる……などなど。
パターン演奏とは、そうしたたくさんの種類の音階を効果的に身に付けるための、みじかな
・
「待って。覚えてないの?」
「…………え?」
「楽譜が必要なの?」
「…………」
「おーい。耳遠いの? 若いのは顔だけ? なぁ
しゅるしゅる、と銀色のペンが伸びる。目一杯まで。
それで灯里の脚は何かを思い出し、無意識に膝を内に寄せた。
――当時。
灯里は私服で教室に通っていた。
灯里はどうも長ズボンというものが好きになれず、もっぱらショートパンツを穿いていたのだけれど、すると当然夏場は生脚な訳で、先生はあの長くしたペンで
最終的にタイツを履くようにしたけれど、どれだけ脚を隠したところで、心を覆える召し物などは存在しない訳で。
いま、灯里は制服だった。
心もとない太ももを、まずはトラウマが鞭打った。
先生との間合いは十分にあるが、距離などにさして意味はなく、恐怖は体の底から込み上げる。
「それともマジで聞こえてないの? なんならこれ、耳にぶっ刺してやろうか」
「いや、聞こえてはいますけど――」
その瞬間。
「――っう!?」
体ごと顔を後ろに背けて、それを避けた。宙に
壁に跳ねて灯里の足元まで転がってきたそれは、ペットボトルだった。透明の液体が中でじゃぶじゃぶ揺れている。
「聞こえてんなら一度目で答えろよ、カス!!!!」
怒声に振り向くと、先生はもうそこまで迫っていた。
「は、はい!!」
「はいじゃねえよブタ! 私はパターンの演奏に楽譜が必要なのか、って聞いたんだよ、
「いえ、いや、覚えてないので、楽譜は、要ります」
「あ? さっきお前私に『間に合う』って、そう言ったよな」
「ま、間に合いますってば! それとこれとは話が違くて、練習はしてきたし、その、ほら、聞いたら分かりますから!」
左手で楽器を構えつつ、右手で慌ててページを送るが。
「やめろ、やめろ。聞きたくない。数時間の練習で暗譜できるような譜面を覚えてないんだから聞かなくても分かる。帰れ、ブス」
「はっ!? だって、前のレッスンは一昨日じゃんね!? こっちは学校も部活もあるのに、それに……先輩のアシスタントも始まったし……そんな時間取れるわけ――痛いっ!!!」
左脚に鋭い痛みが走る。
「二日あればっ!! 四十八時間弾けんだろっ!!!」
その怒号とともに灯里の横に立っていた譜面台が、派手な音を立てて吹き飛んだ。蹴飛ばしたらしい。灯里は驚いて体を縮こめる。譜面台は前のめりに倒れながら、フローリングの床を滑っていった。
「なあ、織部。聞けよ」
・
今度は静かな声だった。
先生はペン先で
「上手くなりたいのは私じゃねえんだよ。四ヶ月で舞台に立ちたいのは、私じゃねえんだよ。ここに話を聞きに来るだけで上手くなれるって思ってんなら二度とそのブタみたいなツラを私に見せんな」
その間もペンは灯里の顔中を這った。
それは殴られるより不快で、灯里はペンから離れるように一歩身を引いた。それで自分の楽器ケースに足を引っ掛け、バランスを失った。
がん、と音がして、バイオリンを落としてしまったことに気づく。
尚もよろける体――その左手首を、先生は咄嗟に掴み、ぐいと乱暴に引っ張りあげた。
「次に楽器を落としたら冗談じゃなく殺すぞ」
その握力が強すぎて、灯里は左手を握ることも開くことも出来ない。
「なぁ。わざわざ私が時間を
絶対そうじゃん、と思ったが言える
「違うだろ。お前がこの手で作り込んできた音を聴くためじゃんね」
そう言ってから、先生は器用に口でペンのキャップを外し、灯里の指先に番号を振った。灯里は、されるがままだった。
人差し指から小指に向かって――1、2、3、4。
それはバイオリンの運指番号。
数字を眺めて先生は満足げに微笑み、「いい?」と耳が
「次に来た時、もしこの数字が消えてなかったら、お前は終わり。私は今後お前の面倒を一切見ない。私から逃げて別の教室に
最後に先生は、灯里の親指にまでペン先を這わせた。
「洗って消すなよ。どうやって消したかくらい、見たら分かるから」
「わかったら帰れ」
ようやく解放された左手に痺れを感じながら、灯里は吹き飛んだ教本だとか
噛み締めた下唇は血の味がした。
憎しみを足の裏から発散するように、どしどしとフローリングを踏み鳴らして教室を引き返した。
「織部!! 挨拶!!」
去り際にそう叫ばれ、灯里は血の混じる唾を飲み込んで声を張った。
「死ね!!!!!!」
すると先生は薄気味悪く笑い、親指を立てて灯里を見送った。
・
教室を飛び出し、真っ暗な帰路は怒りでほとんど記憶がない。
先生が最後に見せたサムズアップ。その意味が理解できたのは、駅の自販機で飲み物を買った時のこと。取り出したお茶を握る具合で、たまたま親指の腹が見えた。
『死ね』
「――――っ!?」
シンプルにそれだけ書かれていた。
カッと怒りが湧いて、買ったばかりのお茶を屑かごの底に叩きつけた。
「お前が死ねっ!!!!!!」
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