#9

1 都合のいい二人

 その夜。


 自室に譜面台を立てた灯里あかりは、しつこく同じ譜面を演奏した。油性ペンで書かれた数字は思いのほかすぐに薄れ、一時間ほどして光里ひかりが部屋を訪ねてきた頃には、ほとんど数字が読み取れないほどにインクは滲んでいた。


「お姉ちゃん、今ちょっといい?」


「無理」


「ええ……。いつもそう言うよね。――ていうか何。いま左手隠さなかった?」


 言いながら光里は灯里の背後に回ろうとしたので、灯里もそれに合わせてきびすを返した。顔を見合わせて半周まわり、妹はあははと笑ってから灯里のベッドにぼすんと腰を下ろした。


「見て分かんない? お姉ちゃん、今日は忙しいの」


 右手の指先に引っかけていた弓と楽器を、これ見よがしに見せる。左手は、後ろ。


「でもお姉ちゃん、埋め合わせしてくれるって言ってたよね」


「言ったっけ」


「言ったよ。先々週の日曜日。私の話、聞いてくれるって言ってたのに、結局りん姉ちゃんと遊びに行った」


「ああ……。でも今日は無理。埋める暇も、合わせる時間もない」


 なにその言い方、と妹は少し笑った。


「あ、じゃあ明日のお昼は? 学校で。決まり。お昼になったらカフェで待ち合わせよう。――さすがにご飯食べる暇がない、とは言わせないよ」


 光里のほころんだ表情がわずかに悪魔めく。こういうのは『凛姉ちゃん』の影響である。


「無理むり。明日の昼はグミちゃん――後輩の女の子と用事があるんだよ」


 私って本当言い訳に関しては一流だよな、と灯里はしみじみ思った。


 もちろん出任せであるが、別に悪気はない。

 近頃の灯里といえばゆっくりできる時間は昼時くらいしかなく、その他の時間は授業であったり、カラオケ制作であったり……、他にもアシスタント(パシリ)や楽器の予習・復習、それからレッスン――そんな雑多な予定で埋まっていた。

 昼くらいのんびりさせて欲しかった。


 咄嗟にグミを言い訳に使ったのは、それ以外の選択肢がなかったからだ。

 妹と奈々千はすでに繋がってしまっているし、むろん凛子とも親しい。男どもは言い訳に使うには無理がある。恋人と邪推されるのもいやだった。メガネとデブの二人はそんなに格好良くない。



「じゃぁ私はいつになったらお姉ちゃんに相談できるのかしら」


「さあ……。それは、まぁ、そのうちだろ」


 そう言って、灯里はまた譜読ふよみを再開した。楽器を構えると、妹は長いため息を吐いた。

 光里はしばらく黙って眺めていたけれど、やがて諦めたらしく、「おやすみ」と短く言って部屋から出て行った。



 妹に<グミを言い訳に使える>ということは、それはつまり<グミに対しても妹を言い訳に使える>という訳であり。



 そしてその後輩に遊びに誘われたのが、翌日の火曜日。

 六限の授業を終えた放課後、コラボ室でグミと並んでガイドメロディーの採譜をしていた時のことだった。


「先輩、金曜にアスナル金山にドーナツ屋さんがオープンするんですって。帰りがけにちょっと寄りません?」


 アスナルとは駅前の複合商業施設のことだ。写真映えする飲食店、小洒落た雑貨屋、それから輸入スーパーなんかもある。

 グミの自宅は灯里の自宅とほど近い。小学校区こそ別にしているが、灯里たちは同じ土地に住んでいる。


「無理。せっかくだけど――金曜は妹と先約があるから」


 勿論、妹とは何の予定もない。

 けれどどうせブドウ君から細々こまごまとした雑用を頼まれるのは分かり切っているし、予定は空けておきたいのである。


 そうならそうだと言えば済むのであるが、何ぶんグミは灯里がディレクターチームに首を突っ込みだしたことを、あまり快く思っていないようだった。

 機嫌を損ねられるのも面倒だし、だから灯里は何かにつけて断る理由に妹を利用した。


 とにかくその日その日を乗り切るので精一杯だった。

 充実感などはまるでなく、ぶっちゃけて言えば、この日常のどこに面白みを見出せばいいのか、灯里には不明であった。


 グミは小リスのように頬を膨らませ、その後しばらく口を利いてくれなかった。

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