#10

1 分離

「こんなもんでいいかな」


 画面から顔を上げた灯里あかりは、窓の外の暗さに驚いた。日はとっぷりと暮れていた。


 足元を確かめながら戸口のそばまで歩き、壁をまさぐる。ぱちんとスイッチを入れると天井はちりちりと明滅を繰り返し、やがて室内を青白く照らした。

 空っぽのコラボ室。


「グミちゃん、さっき断ったの怒ってるかな」


 思い返すと灯里の態度は少し冷たかったかもしれない。

 あの後グミは酷くしょげて、しばらくすると「ピアノがあるから」と帰って行った。多分それは嘘で、だってグミは昨日もピアノ教室だと言っていた。


 ――とにかく。


 そういう訳で灯里は今一人である。

 梅田はいつもきっかり五時に帰宅する。奈々千ななちは最初にちらと顔を出しただけで、その後見ていない。凛子りんこがいないのは最早定番である。


「椅子ばっか一杯あっても仕方ないじゃんね」


 空っぽの教室にはソファばかりが賑やかに並んでいる。まるで閑散かんさんとした家具屋である。

 灯里は手近の赤いスツールに馬乗りになって腰を下ろすと、上体を後ろに倒した。スツールは三連だったからベッドのようになった。


 蛍光灯の無機質な光がいやに目にみた。

 かざした右手にスマホが握られていた。灯里はそこではじめてスマホを握っていることに気づいた。



「――うわ。無意識に持ち歩いてるよ……こわ」


 ひと月前に比べて、四人分の連絡先が追加された。

 言うまでもなく、カラオケ部の面々だ。

 それで着信履歴が華やいだかと言えばそんなことはまるでなく、これまで凛子りんこと母と妹の三人に占められていた着履は、ブドウ君一色に塗り替えられた。ワイナリーも驚きのブドウ畑である。


 日中、このスマホがひっきりなしに鳴る。


 ――ハンバーガー買ってきて、と言われた時はさすがに怒った。

 それでもおまけに付いてくる子供向けのおもちゃがどうしても仕事に必要なのだ、とか言われると、そうなのかと思うより他になく、灯里あかりは不思議な気持ちで女児向けアニメのプラスチック製品をORCA/noteオルカ・ノート本社まで届けた。もちろん、灯里が入れるのは入り口の前までだ。


 要するに、こき使われている。

 ブドウ君が帰るまでは、灯里も帰れない。


『でもオリーブ、音楽関係のアシスタントってそういうものだぞ』


 真面目な顔で言う彼の、スマホの待受画面が、例の女児向けアニメに出てくるキャラだったから、灯里は不信感を強めた。


 不信は拭えない。


(こんな調子で本当にディレクターにして貰えるのかな……)


 ほとんどうんざりして、灯里はだるくなった右手をだらんと床に下ろす。

 青白い天井。今度は左手で手庇てひさしをつくった。


 ――その手首がずきりと痛む。


 昨晩遅くまで弾き込んだせいかほとんど腱鞘炎けんしょうえんに近い症状があった。おかげで指先のインクはすっかり消えたけれど、ぷにぷにの指先に今度は水ぶくれをこさえてしまった。


 見られたいものではない。

 キータッチもままならず、部活中は隠すのが大変だった。


 秘密が増える。不信感が募る。灯里はあえいだ。



 不意に右手のスマホが震える。着信の振動パターン。

 ろくに相手を確かめないまま灯里は通話ボタンに指をやる。


「なに?」


 オリーブか、と電話口にもく通る声が返ってきた。ブドウ君だった。

 もう帰っていい? と、灯里あかりいた。


『まさか。駄目だ。今日中に対応してほしいユーザークレームが大量にあるんだ』


 そっちに残ってる皆で手分けして今日中に直してくれ、とブドウくんは悪びれる様子は一切ない。淡々と告げ、電話は一方的に切られた。

 つー、つー、という切断音を繰り返し聞きながら、灯里はゆっくりと現状を整理する。

 灯里はスツールに寝転んだまま、広いコラボ室を逆さに見渡した。


「……みんな――だと?」


 むろん一人であった。

 データが送られてくるまでの間、しばし考えた。


(クレームとか……そんなことしてる場合じゃないぞ……)


 さっさと家に帰り、暗譜あんぷの続きをしなければならない。さもなければ灯里の学園生活はもう終わり――らしい。バイオリンの先生曰く。灯里は残りの学園生活をゴキブリのように過ごさねばならない。それは嫌だった。


 本当にいい迷惑である。

 ブドウくんではなく、先生でもなく、ユーザーが、だ。


 ユーザーからのクレームと言うことは、つまり既に配信されて市場に出回っている楽曲という訳であり、どこかのカラオケボックスで灯里の知らない誰かが好き勝手文句をつけてきているのだ。


 クレームは本社に寄せられ、ブドウ君を経由し、巡り巡って灯里のもとに寄せられた。



 ――クレームを送る側は気楽でいいよな。



 ぽろっと出た言葉に、灯里はどきりとした。


(それって……)



 自分だった。

 クレームを送るだけの気楽な人、まさしく一か月前の自分だった。



 その折、またしてもスマホが鳴った。

 ブドウくんだった。

 多分『いま送ったから』、とかそういう確認の電話だろう。灯里あかりは電話を受けるどころではなかった。

 電話はすぐに切れた。


 体を起こすと、窓の向こうに鏡面反射した自分がいた。くすんだ女の子。また会ってしまった。


 彼女は左手にスマホを握りしめ、何か訴えかけるような目で灯里を見返した。


『いま、すぐ、電話をかけろ』


 そんな言葉が脳裏に響く。


「……な、だ、……?」


 灯里は声に出して返事をして、それで我に返った。ぞくりと背筋から悪寒が走る。


(……もう……限界)


 このまま続けているとおかしくなってしまいそうな気がした。灯里は勢いよく立ち上がり、膝の裏でスツールを弾き飛ばした。ずかずかと準備室に入り、くたくたのスクールバッグにスマホを投げ入れる。持ち手に肩を通し、再び戸口まで、ほとんど走るように歩いた。


 灯里はパソコンも照明も消さないまま、廊下へ続く戸を引いた。

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