2 追いかけっこ

 完全下校時刻というものがあるのを、灯里あかりはカラオケ部に入って初めて知った。


 午後六時を過ぎると、校内は最低限の照明だけを残したエコモードに変わる。

 学生のための健全な時間はいかにも終わり、深々と夜陰やいんを深める校舎はもう灯里を世話する学び舎でも、灯里を守ってくれる鳥籠とりかごでもない。


 なんだって夜の館内というのはこれほど空恐ろしいのだろう。これなら夜道の一人歩きのほうが百倍マシだった。

 非常口の緑灯も、灯里は苦手である。


 だから帰りが遅くなった日は昇降口までの路程ろていをできる限り急いだし、今日――いや最早今夜――も、灯里は廊下の薄暗さに臆病になりながら、戸を開けるなり駆け足気味に飛び出した。



 ――そして。



 次の瞬間、

 横合いからいきなりぬっと現れた白い影に、灯里は死ぬほど驚いた訳である。


「――――っ!?」


 右半身が、腕と言わず胸と言わず、ぞっと粟立あわだつ。


 すらりとした白い四肢。

 癖のないロングヘア。

 見上げるほどの身長。

 灯里が視線を上げたその先――その顔。モデルばりに整った顔立ち。


「――り……んこ?」


 そこに凛子りんこがいた。

 灯里も心底ぎょっとしたが、凛子も胸をかばうような格好のまま固まっている。


「……あ、灯里?」


 互いに目を丸くし合う。

 その目を、凛子はさっと教室の中へ向けた。灯里も釣られて目線を追う。

 けっ放しの電灯、机に放置されたノートパソコン、鍵盤。そして窓辺。カーテン、全開。

 凛子は目ざとくあちこちに目を走らせ、最後に灯里の肩先を見た。

 灯里が肩に提げているもの――スクールバッグ。

 途端に凛子の表情がいぶかしいものに変わる。


「どこへ行くのかしら?」


 ずいと身を寄せてくる。


「いや、これは」


 言いながら灯里も一歩後退した。肩に掛かるバッグの持ち手を、両手でぎゅっと握りしめる。

 言葉が続かない。適切な言い訳が見つからない。


「……ぅ、あ」


 喉からはまるで首を絞められたときのような、苦しい喘ぎばかりが続いた。


 だから、


「――さようなら!!」


 猛烈な勢いで身をひるがえし、灯里は暗い廊下を駆け出した。


「――え!? はあ!?」


 後ろから狼狽ろうばいが聞こえ、続いて待ちなさいよと凛子は後を追ってきた。


「なんで――逃げるのよ!?」


「にげ、――にげてない!」


 逃げてなんかない。むしろ灯里は――



 闇に対する恐れも不安も吹き飛んだ。

 迫る親友をきたい一心で、灯里あかりは廊下を突き当る度により暗い方を選んで闇雲に突っ込んだ。まずったことに、新館の構造などは灯里にはまったく不明であった。


 本当は凛子が現れた方向に足を向けるつもりだった。

 昇降口への経路はその一本しか知らない。


 ――でも校舎、まわってるし。


 名依めいい学園の校舎は六棟あるものの、そのすべてがグラウンドを囲うように円を描いて接続されている。だから袋小路などはない――と思う。

 じゃぁ何でもいいから走り続ければ、そのうち必ず知っている場所に出られる――はずだ。


 走っていると突然視界が開けた。

 廊下の左手に続いていた壁が、突如、手すりに変わったのだ。


(ホール? 踊り場?)


 よく判らないけれど、天井の高さもいきなり段違いに高くなった。どうやら吹き抜けの空間である。その中央で巨大な螺旋らせん階段が渦を巻いていた。天に立ち上るかのようだった。見上げた天井はガラス張りのドームで、星空に月が浮かんでいた。


 手すりに走り寄って階下を見下ろすと、月明かりにぼうっと浮かぶ白い階段は途中で闇にまれている。


 こんな場所知らない。

 一体ここが何号館なのかも知れない。

 知らないけれど、昇降口が下だということは分かる。


「灯里っ!!」


「――ひっ」


 叱りつけるような声を背中に浴びて、灯里は肩を飛び上がらせた。反射的に見返る。視界のずっと奥――廊下の曲がり角に手をかけた凛子が、ぜえぜえ息を切らしながらこちらへ歩み寄ってくる。


「な――なんでけてくんだよ!!」


 灯里は慌てて階段を下りた。


「灯里が、はぁ、逃げ、――はぁ……逃げるからじゃない!」


「お前が追うからだろ馬鹿野郎!」


 足元は心底暗い。

 自ら闇に体を沈めに行くようなものだった。

 たんたんたん! と軽快に掛け下りていきながら、ときどきつま先が階段の踏面ふみづらを捉えそこなう。左手に手すりを握っていないとそのまま深淵しんえんの底へ引きずり込まれていきそうだった。


「ねぇ……! はぁ、ど、どこ行く気なの……!? さよなら、って何よ!? ――ていうか私が……運動苦手なの知って、知ってるでしょ……ほんと、もう、止まってったら!」


 言いながら凛子お嬢様は小刻みに体を上下させながら駆け下りてくる。

 灯里とはちょうど階段の対極を回っており、横目に見た凛子は本当にシンデレラのような、お上品な走り方だった。


「トイレだよ! ついてくんなよ!」


「上にも……、お手洗いあるじゃない!」


 目が慣れてきたからか、ぼんやりと底が近づいたのが判った。

 目線の高さが二階を下回り、ようやく一階が見通せた。幸いにも見覚えがある場所で、ここから昇降口はそう遠くない。


 ――逃げきれそう。


 そう思ったのが不運だった。

 油断した灯里は階段を一段踏み違え、あっ、と思った時にはもう体が傾いていた。

 後方で小さな悲鳴が上がる。


 灯里はでもしっかりと手すりを握っていたから、転倒だけはまぬがれた。しかし、


「――いったぁああああい!」


 手首の関節に釘を打たれたような痛みが走り、灯里はたまらず悲鳴を上げる。その左手は今バイオリンにより負傷中である。これほど左回りの階段を恨めしく思ったこともない。


「ちょっとちょっとちょっと」


 凛子は早口でちょっとを何度も繰り返しながら駆け寄ってきた。


「灯里! だいじょ――あ! ちょっと、ねぇ! あんたいい加減にしなさいよ!」


 灯里は右手で手首を抱えながら、それでも、走った。

 しかし痛みを抱えつ、灯里もそろそろ限界なのである。


「やめろよお前……! 追っかけ回すとか、ほんと……、監視されてるみたいで、はぁ――窮屈きゅうくつ……なの!」


「はぁ、そんな……監視したこと……一度も、ないよ……」


 ……二人は走っているつもりでいる。

 それでもはたから見れば、二体のゾンビのおたわむれと何ら変りないのかもしれない。


 ――結局。


 やっと灯里が自分の下駄箱にたどり着いた時、凛子も灯里にたどり着いた。

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