第1章 / 3

#8

1 二人の接点 〜待合にて〜

 ――秘密といえば。


 灯里あかりはもう一つ、カラオケ部のみんなに内緒にしていることがある。


(……少しは上手くなってるのかな)


 自分ではよくわからない。

 ひざで挟んだ楽器ケースに意識を向ける。アウトレットで手にいれたパステルイエローのハードケース。中にはバイオリンが入っている。


 これが灯里の第二の秘密。

 むろんバイオリンの経験があることは知られている。そして何故かは知らないけれど、教室を辞めたこともバレている。


 でも。


 教室を再開したことは言っていない。

 そんなの、学園祭を前に焦ってるみたいで恥ずかしい。自分に自信がないみたいに思われるのも嫌だった。

 だから、灯里が必死になって四年のブランクを埋めようとしていることは、誰も知らない。


 この先も、誰にも知られることはない。


 ――いや、さすがに妹は知っているけれど。



 月、水、土。

 かなり無理をして、週に三回レッスンを詰め込んだ。


 あの試聴会からまるっと 二 週 間 が 過 ぎ た 今日は月曜であり、つまり学校があって、部活があって、そういえば幾度目かとなるコマンダの更新もあった。


 二駅離れた土地にあるORCA/noteオルカ・ノート本社。初めて見たときはそびえる高さに驚いたものだが、今となってはコマンダの重さに閉口するばかり。

 しかも、面白くないことに中には入れないし。

 灯里あかりは更新が済むまでの数十分、本社の外で鳥でも見上げて待ち惚けた。


(バイオリンを再開したし、あんまり指先や手首を酷使する仕事はやりたくないんだけど)


 そんなことを胸中で愚痴りながら、またせっせと学校へコマンダを運ぶのだ。

 いっそ秘密をやめれば別の仕事を回してくれるかもしれない。それはそれで楽なのだけれど、心は「秘密にせよ」、とかたくなに意地を張った。


 それから帰宅した。

 スケジュールは切迫していて、急いで用意を取り替えた灯里は電車に飛び乗り、こうしてバイオリン教室へやってきた訳である。

 けれど教室に着くなりすぐにレッスン開始、とはいかない。

 灯里のレッスンは夜八時からの三十分のコマなのだけれど、前後して生徒が埋まっている。


 だから入れ替わりの時間まで、灯里は教室の隣にある『待合まちあい』と呼ばれる殺風景なスペースで待機していなければならない。


(本当は表の工房でのんびりと待っていたいところだけど)


 ――と言うのも、この教室は離れにあって、表には『御門みかどバイオリン工房』という看板を掲げる立派な建物があった。けれど先生はわずかでも時間が空くのを嫌ったから仕方がない。変なところで機嫌を損ねる訳にはいかないのだ。



 伸ばした両手が壁に着くほど狭い空間。

 照明すらなく、ここを部屋と呼んでいいのか怪しいものだった。

 外履きで上がっていいのはここまでで、床には運動靴とパンプスの計二足が几帳面に揃えて並べてある。

 隅っこには木製の腰掛けがあり、座布団が二枚並んでいる。裸足になった灯里あかりはその一方をお借りして、小さく丸まるように三角座りをしていた。


 目の前には外へ出るためのドア。小窓がはまっていて、四角く切り取られた星空が覗いている。

 右手は教室に面していて、こちらにもドア。分厚く堅固なのが一枚。

 狭いのはそうなのであるが、ある種居心地の良さもある。


(――にしても、上手いな)


 称賛した相手は、右手のドア。 ――の先にいる、一コマ前の生徒。

 うすら聞こえる演奏は、灯里にとってCDで聴くプロの演奏となんら違いがない。


 私もずっと続けてたら、こんなふうに弾けたんだろうか、とか思う。


 灯里はひざで挟んだ楽器ケースにとん、とあごをのせた。

 右耳が心地良い。

 小川のせせらぎのようにか細い音楽を堪能しながら、灯里は正面の小窓から四角い星空を見上げていたが。


 ふとその顔が難しいものに変わる。


(ていうか……よく考えたら、私の演奏も次のコマの人に聴かれてるんじゃんね)


 下手くそな演奏を。

 げんなりして、


「………………あ?」


 しかし、同時に思い至った。


 ――もしかして。


 生じ得るのだ。

 こういう場所では。、という矛盾した関係性が。


「え、……でも、待って。四年前のあの子はでも――」


 脳裏に浮かぶおぼろげな容姿。

 確か。

 髪の毛は黒くて――腰ほどの長さ。顔つきはもう覚えていないけれど、そこに貼り付けた表情はいつだって弱々しく、自信なげで。


(ダメだ、はっきり思い出せない)


 もどかしい思いに灯里が頭を掻きむしっていると、右手のドアノブが静かに下りた。待合に細い光の筋が差す。次いで出てきた男はまったく知らない人で、目の合った灯里に軽く頭を下げると、靴につま先を滑り込ませて何も言わないまま外へ出て行った。


 さぁ、地獄の時間が始まる。


 灯里はきりきりと痛む胸のあたりを押さえながら、渋い顔をして立ちあがる。

 灯里の頭はこれからのレッスンのことで一杯で、だからもう、さっき思い至ったことなどは忘却の彼方である。

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