5 灯里の本領(2/2)

 凛子りんこは遠くから灯里あかりに片手を差し向けて言った。


「ブドウくん、後ろをごらんになって。彼女が期待の新人、織部おりべ灯里。あとで紹介しますね。今はなにか――申し立てたいことがあるみたいなので」


 お? と、短く発したブドウくんは、重そうに体を揺すって灯里を振り向いた。

 それで灯里は初めてブドウくんの顔を見た。


 とぼけた顔をしているがそれは不意をつかれたからで、すぐにブドウくんの表情は引き締まった。

 ――その眼。刃の切っ先のように鋭い。定規で線を引いたように角々しい目鼻立ち。雄々しい眉は、額と眼窩がんかをはっきりとへだてている。

 個々の顔パーツは、このように凄まじく上級品である。――しかし残念なくらい顔面が広い。

 灯里は中等部の英語教材に出てきたハンプティ・ダンプティを思い出した。声も居ずまいも綺麗なのに実に惜しい。


 その顔の人が、片手は組んだまま、もう一方の手をメガホンにしてこう叫ぶ。


「いよっ! 新人ちゃん! 言ってやれ!」


 それで灯里は耳を熱くした。


「さて、灯里。何か言いたいことがあるようだけれど」


 凛子がそこで言葉を止めたので、灯里が言葉を引き取る。


「まぁ、だから……気になったことがあったら言っていいんだろ、私も」


「もちろんよ」


 凛子は挑戦的な目つきで灯里を見る。


「今の曲よね? 必要なら指摘する前に聴き直してもいいけれど」


「いや、いらない。たぶん思い出せるから。ていうか、…………あの、すげえ言いにくいんだけど、今の曲だけじゃなくて、最初から指摘漏れがあった――と、思うけど」


 場が僅かにどよめく。

 灯里はその一瞬、目だけで全員の顔を見渡した。

 皆一様に、驚きと怪訝けげんとを混ぜたような不思議な顔をしていた。どうも灯里の意見に味方する人はいないようだった。

 ブドウくんだけは、ほう、と言ってあごを撫でたが真意は解らない。


 一か八かだなと思う。


 みんなが当たり前に間違いを聞き過ごしていたから、正直、灯里は自分の音感を疑ってしまいたかった。そうして自分を殺すのは、それはそれで楽だったろう。でも、灯里にも一人カラオケの趣味を四年間続けてきたプライドがある。


 あの日々を無かったことにするのは――絶対に嫌だ。


(って……、そうじゃん。私だけ四年なんじゃん)


 ふと思い至り、灯里はぱっちりと目を見開く。

 先輩たちはカラオケ部に入って三年目。凛子と梅田は二年目。つまり、カラオケの間違い探しに関して言えば、灯里はこの場の誰より経験が長いのだ。


 凛子が言う。


「そう……。そうやって言うからには、もちろんさかのぼってすべての間違いを言えるのよね?」


 彼女のたたえた笑みはどことなく冷ややかで、もう灯里には誰が敵か味方か分からなくなっていた。

 瞳をしぼる。夕陽を背負う親友の輪郭が冴えざえと際立つ。


 ――確かなのは、己の力だけ。



「言えるよ」



 多分、できるはず。

 灯里はピアノに向かってゆっくりと歩みを進めた。薄暮うすぐれの教室。夕陽が目に沁みる。


「先輩――」


 不安そうな声を背中に聞いた。

 みんなの背中を回り込むようにして歩き、灯里はピアノの前に立った。鍵盤ぶたをわずかに開き、人差し指を差し入れる。


 そして一つだけ、「ド」の音をさらう。静寂しじまが満ちる教室に、こん、と優しい音色が転がった。


 すると、


 脳裏に取り留めなく記憶していた六曲が、たちどころに楽譜としてまとまっていく。音楽が楽譜になって灯里の頭を廻る。



 ――それが、灯里の能力だった。



 灯里あかりは音と音との距離を、正確に記憶している。だから、一つだけでも音が分かれば、他のすべての音を言い当てられる。

 それが灯里の持つ相対そうたい音感というやつだ。


 そして灯里の場合、この感覚が異常に優れていた。


 例え音が何重に重なっていようとも手に取るように判る。最近のポップスのようなごちゃごちゃした楽器編成の音楽だって、灯里にしてみれば丸裸同然だった。


 多分その力は、絶対音感を習得できなかった幼い頃の灯里を酷く罵倒した、あのバイオリン講師の所為せい――いや、おかげか――だと思う。


『なんでお前はこんなものも判らないんだよ? その耳は飾り物なの? 引っこ抜くぞ、ブタ』


 怖くて、悲しくて、痛くて――辛くって。


 脳が必死になって音と音のインターバルを記憶したのかもしれない。

 ほとんど防衛本能だ。

 だから、敵が多いほど、この力は強く発揮された。


 ――今は、


 まぁほとんど全員敵みたいなものだから。


 おかげで灯里の頭には今、遡って六曲 × (原曲+カラオケ音源)――つまり合計十二曲分の音楽が楽譜となって揃っている。


 これほど感覚が冴えたのも初めてだった。

 ピアノ越しに凛子を見やり、灯里はにこりと笑んだ。




「さて、どの曲から始めよっか」

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