2 凛子の企み

 新館のエントランスは広いがらんどうの空間で、隅の方にテーブルセットがいくつも置かれているがどれも満席だった。昼時だからか賑わいはある。


 正面の真っ白な壁には大きな額に入った抽象画――というのだろうか――が飾られていた。灯里あかりにはただ絵の具をぶちまけただけのようにしか見えないのだけれど、採光に優れたエントランスに、彩度の高いその色調はよく馴染んでいる。


 その絵の下にベンチが並び、その内一つに凛子りんこの姿を見つけた。


「灯里」


 凛子もこちらに気づいたようで小さく手を振って近づいてきてくれるのだが、その顔に張り付けた薄ら笑いには、やっぱり来たわね、と書いてある。灯里はどうも素直に挨拶を返せなかった。


「それじゃ行きましょうか」


 凛子はくるっと向きを変え、灯里を先導するように廊下を歩いた。


「私、新館来たの初めてかも」


 灯里がそう言うと凛子は鼻で笑った。冗談と受け取ったらしい。

 実際、灯里は初めて新館を歩いた。だから通り過ぎる教室を新鮮がって眺めた。書道教室や被服室、よく解らないところでは作法室や工芸室など、なるほど新館に用事が出来ない訳である。

 エントランスより奥では弁当箱を持った学生もほとんど見ない。あそこくらいしか風呂敷を広げる場所がないのかもしれない。


「ところで灯里」


 凛子は少し傾げた横顔で灯里を見た。

 凛子は背が高い。並んで歩くと灯里を見下ろす格好になる。


「昨日は私の誘いをすっぽかして、どこで何をしていたのかしら」


「あ、あー……、ご飯行ってた。と、……友達と」


「へぇー、ゴハン。トモダチと」


 その声は大根役者のように平板へいばんで、凛子は横目でじっとり灯里を見据えた。さすがに見え透いた嘘だったかと反省した。


 あの趣味――例のクレーム趣味は、凛子には秘密にしてある。


 むろん趣味は好きだし自分から続けているのであるが、だからと言って『クレームが好きなの』だとは言えない。やってみれば結構面白いのだけれど、それを上手く伝える自信もない。

 陰気なやつ、と下手に誤解されるよりは黙っていた方がいい。

 女子高生だもの。華々しくありたい。


 特に昨日のカラオケ以降、その思いは強まった。


「まぁ、いいんじゃない。せいぜい残り少ない自由を楽しむことね」


 そう言って凛子はまたすいすいと足を進める。


 灯里には凛子の言うことがいまいちピンとこなかった。でもたぶん、じき三年生になれば受験で忙しくなるとかそんな意味だろうと大して気に留めなかった。



 案内された先はとある特別教室であった。


「おお」


 凛子りんこが鍵を開けて戸を開くなり、灯里あかりは彼女の肩越しに広がる光景に感嘆を上げた。


 室内は驚くほど広い。

 大教室を横に二つ並べたような横長の教室である。


 教室のあちこちにローテーブルやソファが置かれている。どれも五、六人が掛ければ埋まるような少人数のための席だった。

 教卓や教壇といった先生の居場所らしき所は見当たらない。そんなだから、「教室」と言うよりは「大型の休憩室」という印象ではある。


 正面は一面が窓。差し込む光が澄み渡り、室内は冴え冴えとしている。開放的で気持ちの良い教室だった。


「なになに。いい感じじゃん」


 灯里は吸い込まれるように教室の奥へ足を進めた。床は深い色合いのタイルで、木目調なのだけれどツヤがある。歩くとこつこつ足音を返した。


「コラボレーションルーム。略してコラボ室って呼ばれているの。学生同士で意見交換したり、ディベートの授業でも使われてるわね。来たことないの?」


「ないね」


 そういうよく分からない授業は保健室で受けることにしている。


「もしかして灯里、本当に新館は初めてだったとか?」


「だから、そう言った」


 窓辺はそれからカウンターテーブルにもなっていて、机の上に陽だまりが出来ている。指先で触れると、たっぷり暖をたたえていた。ひと席占めて、灯里は猫のように丸まって突っ伏した。


「最高」


 誰もいないのが何よりいい。

 こんな素敵な場所があるなら、灯里はこれからここでお昼を食べようかなと思ったくらいだ。


 窓からの景色を眺めてみたけれど、三階なんて知れたもので大した景観は望めなかった。

 向こうにあるはずの名駅周辺のビルや栄のテレビ塔は、グラウンドを囲う五棟の校舎に塞がれていた。せめて放課後なら部活動に励む運動部の姿くらい眺められたのだろうが、今はがらんとしている。



「――で? カラオケはどこにあんだよ」


 カラオケに無くてはならないアレやコレ。何処いずこやアレコレ。しかし見渡す教室のどこにもソレらは見当たらない。


「その前に灯里あかり、ここに名前をちょうだい」


 すっと椅子を引いて隣に掛けた凛子りんこが、灯里の手元にプリントを忍ばせた。


「何だよこれは?」


「機材を使うに当たっての申請書みたいなものね」


「……はあ。なんか面倒だね? ていうかその機材はどこにあるのさ」


「もう。疑い深いわね。ちゃんと準備室に置いてあるわよ」


 ――ここでやらないんだ。

 灯里は少し落胆した。


 記名を済ませると、凛子はぺらりとプリントをめくった。下にもう一枚プリントが重なっていた。


「こっちもお願い」


「はいはい、……って、こっち入部届じゃんね!? 入んないよ!」


 そういう魂胆か!

 高二になった今年から凛子が<カラオケ部>で副部長を務める事になったとは聞いていた。詳しい活動内容こそ聞いてないけれど、今年は新入部員が少ないと嘆いていたことがあったのだ。


「あは。そんな事言わないでよ、灯里。幽霊部員でもいいからさ。こうやって休み時間に歌いに来たっていいし、その鋭い頭脳で考えてごらんなさい。デメリットなんてあるかしら?」


「うぅ……、それは確かにそうなんだけど……。なんかめられたみたいでしゃくじゃん。ていうか私だってそれなりに忙しいというか、タスクが控えてんだよ、タスクが」


「あははは、タスクって! 花の女子高生が意識高い勤め人みたいな言い方しないの。まぁ入部届これは後回しでも構わないから、とりあえず一曲歌ってみよっか!」


 ぐいと手を引かれ、体の小さな灯里はなすすべもなく教室の一角に連れて行かれた。


 目の前に扉。

 目線よりずっと上に『準備室』と書かれたプレート。


「ここがこの学園唯一のカラオケルームよ」

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