5 二人にとってのバイオリン

 奈々千ななちはバイオリンを構えると、ネックを握る左手だけでぽろんぽろんと弦をはじいた。器用なことに流れてくる音はしっかりとメロディーになっている。


 この人、左手だけで演奏してる――灯里あかりなんかには見ているだけで指がつりそうな光景だった。さらに彼女はひまをしていた右手で糸まきペグを捻り、演奏しながらチューニングしていった。ギターじゃあるまいし、そんな調弦のやり方は初めてみた。


 手元は恐ろしく技巧的で、けれど奈々千の顔はちっともそんなことを想像させなかった。


(……幸せそうに弾くなぁ)


 目を閉じてバイオリンに顔を寝かせる姿は、まるで宝物を抱いて眠るみたいだった。斜めになったその顔がふと灯里を見つけて、にっこり笑んだ。――この貝殻、波の音が聴こえるの、とか。そんなこと言い出してしまいそうなほど無邪気な顔だった。


 そんな先輩に、灯里はすっかり魅了された。


 バイオリンとの四年ぶりの対面。

 最初こそ顔を強張らせたが、奈々千につられ、知らずのうちに表情は和らいだ。


 私もこんなふうに弾けたらな、と思う。そうなら、例えバイオリン教室を辞めたとしてもバイオリン自体を辞めることはなかったんだろう。


 窓辺に腰をもたせ、灯里はしんみりとそんなことを考えていた。



 しばらくして音楽が止んだ頃、楽器はすっかり調子よく仕上がっていた。

 奈々千ななちはぶらんと楽器をおろすや、深々と息を吐いた。


「はぁ………、緊張した。何気に初めてじゃん、灯里あかりちゃんに演奏を披露するのって」


「……? そりゃ、そうじゃんね」


 変なこと言うなぁ、と思った。


(……って、いまさらか)


 灯里は自嘲するように小さく笑った。

 変といえば、この人は最初から変だった。すこし思い返しただけでも、彼女の不審な言動はいくつも出てくる。


 ――『あなたが――灯里ちゃん?』


 初めて顔を合わせた時の、その意外そうな口ぶり。

 刹那せつな見せた哀しげな表情。

 五、六歩の距離をエスコートしたり、そうかと思えば、その後今に至るまでは指先さえ触れていない。


 そして何より、知るはずのない灯里の過去を知っていた。


 ストーカーのグミより、KYな梅田より、灯里が最も掴めないでいるのは、この金髪の先輩だった。



 奈々千ななちは手近にあった弓を取り、窓辺にいる灯里あかりのほうへ戻ってきた。


「どうだった? 私の演奏おかしくなかった?」


 あんな演奏を見せておいて冗談でも言っているのかと思ったが、目の前まで来た奈々千は本気で不安そうな顔をしていた。


「全っ然。めっちゃ格好良かったですって!」


 言うと、奈々千は安心したように笑った。

 人を褒めるのは得意でなかったけれど、こればかりは心の底から拍手を送れる。ファンがつくのも納得だし、実際灯里も先輩の虜になった。


「私もあんなふうに弾けたらな、って……。そしたら学園祭くらい余裕で出てやるのに。……まぁそんなの無理っすけど」


「大丈夫、灯里ちゃんなら絶対できるよ」


 また無責任なことを、と弱る灯里に、本気だよ、と奈々千は楽器を差し向けた。


「最初はブランクに戸惑うかもしれないけど、灯里ちゃんなら絶対に学園祭を成功させられる」


 その言葉は妙な自信に溢れ、灯里は悪い気はしなかった。それでも「はいそうですか」と受け取ってしまえるほどの説得力はない。


 灯里が渋ると、奈々千は意地悪そうに笑った。


「いいの? ここで楽器を受け取らなかったら、学園祭で出場者が歌うカラオケ音源を梅田くんと二人で延々つくり続けることになるよ。毎年三、四十人はエントリーするから、相当苦労するだろうなぁ」


「それは……色々と嫌かも」


「でしょ。じゃぁ、ほら」


 改めてバイオリンを差し出され、しかし灯里もかたくなだった。


「なんかズルくないっすか?」


 困り果てて灯里は笑うしかなかった。少し強引な気もするし、けれどその理由はすぐにわかった。


「何もずるくないよ」


 奈々千は一度楽器を降ろすと、声を落とし、「灯里ちゃん、あのね」と優しくさとすように言った。


「どうしようもなく演奏が辛くて、辞めたくて辞めたくて考え抜いて辞めたのなら、私はこんなこと言わないよ。でも四年前のあの出来事は、衝動的に起こしちゃったんじゃないかな。それでもし素直になれないだけなんだとしたら、心のどこかで本当はやりたいと願っているんなら……私は何としてでも助けてあげたい」


 奈々千は灯里の心に瞳から入り込もうとするみたいにじっと見つめ、



 ――私が確かめたかったことってこれだよ、と静かに言った。



 これが先輩の本題だった。

 だからバイオリンのある音楽室を選んだのだ。灯里が楽器に未練を残していないかを確かめるために。


 灯里を見据えるその表情は、優しいものだった。

 さっき楽器を弾いていたときの、あの無邪気な顔。

 貝殻の声を聴こうとするように、今度は灯里の心に耳を傾けてくれている。


「その、先輩は……なんで私のためにそこまでしてくれるんですか」


 まぁ聞いたところで教えてくれるとは思っていないし、実際奈々千は「さぁ」と濁した。

 それでも灯里の考えは一つ進んだ。


(初対面じゃないんだろうな)


 そうでもなければ、自分を想ってくれる先輩の気持ちに説明がつかない。

 初めて会った人間にそこまで言わしめる魅力を自分が持っているはずもない。きっと私たちはどこかで面識がある、そう思った。そして灯里に好意を持ってくれるほど交友を重ねた。それでこの人を信用して、語りたくない過去を――バイオリンを辞めた経緯を話したのだ。


 むろん心当たりはまったくないし、自分の記憶が一部途切れたという事実もない。それでも、その説明がいまのところ一番しっくりくる。



 私たちは、



 ――――それでいいじゃん。


 灯里は難しいことを深々と考えるたちじゃなかった。



 所在なげに奈々千が片手にぶら下げている弓を、寄越せとばかりに奪い取る。

 ごめん、こんなぶっきらぼうで、と思う。思うけど、言わない。絶対に謝らない。それが織部灯里おりべあかり。こんな態度でしか本当に進みたい道を選べない不器用な人間なのだ。


 瞬間、奈々千の顔はほころび、


「はい、どうぞ」


 灯里にバイオリンを手渡してくれた。


(……そっか、バイオリンて冷たかったんだっけ)


 そんなことも忘れていた。ニスで何層にもコーティングされたバイオリンは手に冷たいのだ。それがあんなに温かい音色を発するのだから不思議だと思う。まだ灯里の頭には奈々千の演奏する姿がちらついていた。


 灯里は持ち上げたバイオリンに顔を寝かせ、目を瞑った。顎当あごあてにすっぽり収まる頰は、四年ぶりに帰り着いた居場所に安堵して緩む。


(なんだよ……。私だって笑えるんじゃん……)


 心に堆積たいせきしたおりを吐き出すように、灯里は深く息を吐いた。そして助走代わりに短く息を吸い、弓を持つ右手を高々と振り上げる。




 ――――舞い上がれ、私!

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