2 取り越し苦労

 灯里あかりが再びコラボ室の前に立ったのは、それから三十分以上も後のことである。

 たかだか数分の距離にそれほど時間を費やしてしまったのは――つまりそういうことで。「新たな出会い」という言葉に、灯里は慣れ親しんでいない。



「お邪魔しまーす……」


 鍵は開いていた。そろりと戸を引き、おずおずと中の様子をうかがう。


 広い教室は相変わらず見通しが良い。日の向きが変わり、室内は昼に来た時より少しばかりかげっている。


(うわぁ……誰かいる)


 窓辺のカウンター席に女の子らしき後ろ姿があった。制服のデザインからして高校生であることは確かだ。


 灯里の位置から女の子の顔こそうかがえないが、角度的にその手元は見えた。

 鍵盤が置かれている。それも――かなり小さい。片手で軽々持ち運べそうなサイズだ。その奥にノートパソコンが並べてある。


(なんか……いかにもだよね)


 いかにも音楽つくってます、的なセットだ。


 女の子はと言うと、ずいぶんくつろいでいるように見えるが、ふて腐れているようにも見える。片腕を枕にしながら、ときどき退屈そうに鍵盤を押した。その度に高い位置でったさらさらのポニーテールが小さく揺れた。


 灯里が入室したことにまるで気づいていない様子であるが、その理由は彼女の背後まで足を進めてみて分かった。


 両耳がヘッドホンで塞がれ、せた音がしゃりしゃりと漏れ聞こえる。


(……あぁ、これいまカラオケ作ってんだよね? そういう認識でいいのかな)


 ――邪魔するのも悪いか。


 灯里は彼女が耳を休めるのを待つことにした。



(なるほどね)


 音楽を部分的にリピートしながら鍵盤を叩いて音を探す。フレーズを覚えたら今度は録音ボタンを押し、本物の音楽に合わせてピアノを演奏する――ポニテの女の子がしている作業は、大体そんな感じだった。


 それはそうと。


 さっきから彼女が演奏するたびにパソコンの画面に細長い棒が記録されていくのだが、灯里あかりはその横棒に見覚えがあった。


 カラオケの採点モード中、画面の上のほうに表示されるアレだ。歌の進行に合わせて横に流れていくあの横長のバー。その名も――、


(<ガイドメロディー>……だよね、これ)


 彼女は今まさにそれを作っている最中だった。


(地味というか地道というか)


 パッとしない作業だよな、とは思う。

 別にカラオケ作りに運動部みたいな派手さを求めるわけじゃないけれど、それにしたって誘われるものがないというか、いまいちピンとこない。


 それとも実際にやってみたら楽しいとか――そんな考えがふと起こり、灯里は女の子の着けるヘッドホンに耳を傾けた。

 目を瞑り、右手を胸の高さに持ち上げる。

 微かに聴こえるボーカルの旋律を、エアピアノで演奏してみた。


 すると、


(お、分かる分かる! さすが私、だてに三歳からピアノを始めてない!)


 まぶたの裏で、ぼんやりと楽譜が組立っていく。

 灯里には絶対音感が無いから、どの音がどの音か……、なんて判断はつかないのだが、次の音へのインターバルくらいなら判る。ピアノは小学校へ入学してすぐ辞めたけれど、指は未だに音程を理解していた。


 たかだか数年の音楽経験ではあるが、こいつは案外カラオケ作りに活かせるのかもしれない――と、そう思った矢先。耳に届くしゃりしゃりの音楽が、急にその音量を増した。


(な、何ごと……?)


 そう思ったのと、灯里が目を開いたのは同時だった。


 そして。



「――――っ!!?」



 視界一面を、肌色が埋め尽くしている。

 いや、肌色どころか、肌そのものである。顔だ。目の前に、顔がある!


 さっきまで背中を向けていたはずの女の子が、ありえないほど近い距離で灯里の顔を覗き込んでいるのだ。ふんだんに光をたたえる二つの瞳が、灯里の目を交互に見てきょろきょろ動く。


「――んなっ!?」


 灯里は思いきり顔をけ反った。

 咄嗟とっさに後ろ足が出ず、まるで土俵際に追い込まれた力士のように両足で粘ってしまう。そんな様子を見て、女の子はけたけた可笑しそうに笑った。


「灯里先輩! カラオケ部へようこそ!」


 女の子はふわりと舞うように一歩下がり、灯里はそれでようやく体勢を立て直すのだが、


「灯里先輩!」


 女の子はなぜか再びこちらに舞い飛んできた。


「――へっ!? あ、ぐふぅ」


 胸に軽い衝撃。女の子は細い腕を灯里の脇の下に無理やり突っ込み、背中でぎゅうと締めた。


「グミです! 一年生!」


「は……はあ?」


「あ、グミってお菓子じゃないですよ。梅田茱萸うめだぐみって言うんです、私! 茱萸ぐみって言うのはあの赤くてちっこいサクランボみたいな実のほうで――」


「いやいやいや。そうじゃなくて」


 目の前に目。鼻先に鼻。額と額を引っ付けて、それだけで意思疎通がはかれそうではある。誰のものか判らない前髪がやたらと顔に刺さりくすぐったい。女子らしいフルーツの香りはたぶん、彼女のもの。


 茱萸ぐみでもチェリーでもいいけど。何よりまずはその位置取りをなんとかしろ、と。


「あのさ、近い……よね? いきなり」


「いいえ、まったく。むしろ遠いくらいですよう」


 言いながら女の子――グミは、灯里の胸(というか胸骨)でごりごりと頰ずりをする。後ろに束ねたポニーテールが一緒になって踊る。


 意味が解らない。遠いってなんだ。ていうか、人って初対面でこんなに砕けるものなの? 日頃人と交わらない灯里にはそんなことすら分からない。


 何はともあれ。


 女の子は何故か灯里の名前を知っていて、灯里は自己紹介の難を逃れたのである。

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