2 ディレクター凛子の手ほどき

「だから――」


 わかるかよ。一週間だぞ、と灯里あかりはそのまま言った。


「それも入部初日は座学だけだし、正味しょうみ四日じゃんね。もっと言うなら最初の三日は、超・初歩! だよ。カラオケをつくるためのアプリの使い方講座? みたいな。ダルすぎない?」


「大事じゃない」


「そうか? 明日の天気をいてんのに、天気図の説明されたら怒るよ私は。雨か晴れか言えばいいじゃんね」


 例えがおかしいわよ、と凛子は難しい顔をした。


「そんなのどうでもよくて。ともかくさ、」


 ようやくパソコンの扱いが板についたのが一昨日の金曜である。

 だからつまり灯里はまだカラオケづくりを一日しか体験していない事になる。それだってカラオケの「カ」の字というか――ほとんど触りの部分だろう。


 ヘッドホンから流れてくる音楽を聴きながら、鍵盤を叩いてボーカルの音を探った――それだけだ。詰まるところ、グミ(灯里に憧れを持つあの後輩)を初めて見掛けたときに彼女がやっていた作業を、そっくり灯里が引き継いだのだ。



 そんな訳で、グミの作業は一つステップアップした。

 当面は二人で力を合わせて一人前になることを目標にしよう、と二人の教育係である奈々千ななちは意気込んだ。グミもまた入部二ヶ月目で半人前だから、灯里あかりとセットで教わっている。


 入部時期も、身長も、化粧も、似た者同士。

 そんな二人は、皆からペアとして一まとめに扱われている。

 何をするにも灯里たちは一緒だった。


『灯里先輩と一緒の机でお勉強できるなんて、夢みたい。こうしてるとまるで同級生みたいですね』


 灯里の隣にキーボードを並べて、グミは嬉しそうだった。それから、


奈々千ななち先輩はずっと歳上の先生みたい』


 と、言い足すと、奈々千は不服そうに口をゆがめた。


『やめてよ、私が老けてるみたいな言い方。私もグミちゃんと同じ気持ちだよ。あと四ヶ月で引退だなんて全然現実味ない。いっそ留年しちゃいたい』


 ――そうして三人で喋ることはままあって、そこだけ切り取るなら、カラオケ部って悪く無いところだな、なんて灯里は思ったりしている。


 楽しいは楽しいのだ。

 これまで灯里の話し相手といえば、妹か凛子か母か、せいぜいバイオリンの先生くらいなものだったから。


 この一週間で、確実に世間は広がった。

 親友がいて、先輩や後輩もできて、……ついでに梅田もいたか。男友達というのは生まれて初めてだ。とにかく交友関係に恵まれた。

 思いがけず遭遇した入部という転機。学園生活は一転して華々しいものとなった。


 でも――、


「でも、もっと欲張ってもいいんじゃないかって思うんだよね」


 凛子りんこがドレスを什器に戻すのを隣で眺めがら、灯里は訥々とつとつと語った。


 本音を言えば今でもディレクターになりたいと思っている。

 一方で、それは欲深過ぎだろう、と諦めようとする自分もいる。

 灯里にはバイオリンもある。ただでさえ多忙なのだ。半ばオーバーワーク気味の灯里はすでに妹との約束を反故ほごにしている。こんな状況でもう一つ、なんてちょっと強欲かもしれない。


「いいんじゃない、それは」


 しかし凛子はけろっと言った。


「私は、あなたこそそういう気持ちを大事にすべきだと思う。それを前向きに捉えられないのなら……、そうね。『向上心』と呼び替えてあげればどうかしら」


「はあ。ずいぶん簡単に言うね」


 すると凛子は俯き加減にくつくつと笑いながら、簡単だもの、と言って店の奥へと歩き出した。


他人ひとのことは簡単なの。難しいのは自分のこと。はたから見れば灯里のその悩みはバカっぽいというかさ。前向きな発言しながら何弱ってんのよ、って感じ」


「あっそう。私の繊細さを知らないんだね」


「いい性格してるくせによく言うわよ。まあいいわ。助言するけど、よ」


 それはその通りかもしれない。これまで深く物を考えて状況が好転した試しがない。


「それでもディレクターは楽な仕事じゃないってことは承知しておいてね」


「そうなの?」


「大変よ。クリエイターの上に立つのがディレクターだもの。ずっと重い責任がある。先方――つまりORCA/noteオルカ・ノートのことだけど、先方からNGを出されたとして、それがたとえクリエイターの過失であっても、全部自分の責任として受け止めなきゃならない。まず最初に矛先が向くのが、ディレクター。ディレクターになることでカラオケを楽しむお客さんに一歩近づくわけだから、大変なのは当然よね」


 ずい分詳しいが、そのはずだ。いわば彼女は当事者なのである。


 凛子はこの五月からディレクターになった。まだ候補らしいけれど、度々コラボ室を抜けてはそのまま学校に戻らない日もあった。本人にいた訳じゃ無いが、きっとORCA/noteオルカ・ノートに出入りしているのだろうと灯里は踏んでいる。


「大変……か」


 それは奈々千にも言われたことだった。

 けれど先輩には申し訳ないが、今の言葉のほうが遥かに重く、心に沁みた。

 さすがの灯里も安易に返事ができず、渋く唸る。


「ま、そのうちチャンスが転がってくるわよ。その時の気持ちに従って好きな方を選べばいいじゃない。時間はあるしゆっくり考えなさい」

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