第1章 / 2
#5
1 「あの時」
それこそ
部屋は落ち着いた色の灯りで満ちていた。
奥にアップライトピアノがあって、先生はいつも天板の上に自分のバイオリンを乗せていた。ピアノの脇には小さな本棚がある。A3判の教本がぎゅうぎゅうに押し込んであって、でもその教本を開いたことは一度もない。そして先生のバイオリンケースが開くことも、ほんとんどない。
――代わりにその
「あ? お前、誰に向かって
大人の男みたいな、重くて低い、心臓に響く声。
うわぁやっちゃった、と小学生時分の灯里は思った。
このあと引っ叩かれて、レッスンの全部の時間を使って灯里を
ただただ怖い。灯里は言われたことを全部守っているのに、小学校からまっすぐ帰って一生懸命練習しているのに、すこしでも言葉を誤るとすぐにこれだった。
それでも辞める訳にはいかなかった。辞めたら殺す、と言われていた。
「なぁ、おい」
ぐいとシャツの
先生は間近で見ると細かいシワがいくつもあって、派手な化粧は年齢を隠すためだと灯里は子供ながらに知っていた。
『先生て何さいですか?』
一度そう
洋服も普通の先生とはすこし違った。丈の短いワンピースがお気に入りらしくて、最近はニット生地の、
「なんとか言えよ」
脅すような口で言われ、灯里は視線だけ右に逃した。
どうせ何を言ってもぶつくせに、と灯里の顔がすこし歪む。その瞬間。
右耳に鋭い音を聞いて、同時に視界がぶれた。灯里の顔は左を向いていて、
「……はぁっ!?」
思わずカッとなった。これまで色んなところをぶたれたが、顔は初めてだった。
「は、じゃねぇよブス」
ぱしん、と灯里の顔が今度は右を向く。
「下手くそがいっちょまえに口利いてんじゃねぇよ。いいか
「やってきたし!」
スッパ――ンッ! と景気のよい音とともにまた左を向くが、ここまでくるともう意地だった。灯里は意地で喋り続けた。多分、灯里の中で何かが切れたのだ。
「やってきたけど上手に弾けないって、そう言っただけじゃん! ――っ!! いったいなぁもう! そもそも私――ッいってぇ! そんなすごい演奏したいなんて思ってないし! 私は普通でいいのに!! 友達とだって遊びたいのに!!! 」
「知るかよ。私のところに習いにきてんのはお前だろうよ。出来るようにして来いっつったろ、なぁ? お前のレベルとか目標とか、そんなもん私に関係ねーの。私は生徒全員を演奏家にさせるし、現にお前の年で人前に立ってるやつもたくさんいる。なのに、お前は何? 七年も私に教わっておいて、何になったんだよ? ――答えろよ、ブタ」
「知らないけど! ブタじゃないことは確かじゃねえの!」
吐き捨てるように灯里は言って、胸ぐらをつかむ先生の腕を、楽器を持ったまま肘で振り払った。
先生は乱暴にされた手首をさすりながら、苛ついているように見えた。
――――××××だよ、ブス。
お前みたいなのをそう呼ぶんだよ、と先生は言った。
やだな、と思った。よくわからない言葉でも、いい意味じゃないことだけは解った。それに、なんだかただの悪口じゃないような気がした。それでも難しいことばを使われて、反論の仕方がわからない。すごく悔しくて、目にいっぱい涙を溜めた。ぼやけた視界越しに相手を睨みつけるだけで精一杯だった。すると、
「そんなお前に友達なんて、いるわけないじゃんね。夢見てないで、私の言ったことに従ってりゃいいんだよ」
「――いるってば!!!」
そうして灯里は楽器を叩き壊した。弓はその辺に捨て、両手で振りかぶって先生の目の前に叩きつけた。その反動でぼろぼろと大粒の涙が溢れ落ちた。足元で空洞に響くような間の抜けた音がして、楽器はあっさりと首から折れた。無意識だった。灯里はほとんどパニックになりながら、
「やめるから!!!!」
一言だけ叫んだ。
涙がどんどん奥から溢れてくる。悲しくはない。悔しかった。手にしていた木の屑は持ったまま、あと隅っこに置いてあったバイオリンケースを乱暴に取り上げ、ずかずかと歩いていく。散歩中の犬みたいに、バイオリンの胴が後ろを付いてくる。
大げさな音を立ててドアを開くと、申し訳程度の待合スペースでレッスンを控えた生徒が目を丸くしていた。
「こんなところ、やめたほうがいいよ!!」
後ろにいる先生にもちゃんと聞こえるように大声でそう言うと、
「おらぁ織部!! やめるなら一人で勝手にやめろっ!! 他人を巻き込むなっ!!!」
息が止まるほどの大きな声に、灯里は肩を飛びあがらせた。
先生はスリッパで床を踏みならしながら灯里に近づいてくるので、灯里は逃げるようにして外へ続くドアを開いた。ちらとだけ見た先生は鬼のような
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