第1章 / 2

#5

1 「あの時」

 それこそ灯里あかりの通っていたバイオリン教室は、準備室くらいの広さだった。


 部屋は落ち着いた色の灯りで満ちていた。

 奥にアップライトピアノがあって、先生はいつも天板の上に自分のバイオリンを乗せていた。ピアノの脇には小さな本棚がある。A3判の教本がぎゅうぎゅうに押し込んであって、でもその教本を開いたことは一度もない。そして先生のバイオリンケースが開くことも、ほんとんどない。


 ――代わりにその女性ひとは、口を開いた。


「あ? お前、誰に向かって口利くちきいてんの?」


 大人の男みたいな、重くて低い、心臓に響く声。


 うわぁやっちゃった、と小学生時分の灯里は思った。

 このあと引っ叩かれて、レッスンの全部の時間を使って灯里をののしる。それで灯里はただただ沈黙を守り、俯いて、嵐が去るのをじっと耐えて待つ。そんなことがもう七年も続いている。


 ただただ怖い。灯里は言われたことを全部守っているのに、小学校からまっすぐ帰って一生懸命練習しているのに、すこしでも言葉を誤るとすぐにこれだった。

 それでも辞める訳にはいかなかった。辞めたら殺す、と言われていた。


「なぁ、おい」


 ぐいとシャツのえりを巻き込むように胸ぐらを摑まれ、灯里は両手にバイオリンと弓をぶら下げたまま、なすすべもなく爪先立ちになる。


 先生は間近で見ると細かいシワがいくつもあって、派手な化粧は年齢を隠すためだと灯里は子供ながらに知っていた。


『先生て何さいですか?』


 一度そうたずねた時(リアルに)殺されかけたから、それ以来聞かないことにしている。三十か四十か……、たぶん母と同じくらいだろう、と灯里はふんわり思っていた。


 洋服も普通の先生とはすこし違った。丈の短いワンピースがお気に入りらしくて、最近はニット生地の、すそがフレアに広がるタイプのものを好んで着ている。とにかく体の線を強調した。とことんスカートの短さを追求した。他の先生はあまり肌を見せたがらないのに、変わった人だ。


「なんとか言えよ」


 脅すような口で言われ、灯里は視線だけ右に逃した。

 どうせ何を言ってもぶつくせに、と灯里の顔がすこし歪む。その瞬間。


 右耳に鋭い音を聞いて、同時に視界がぶれた。灯里の顔は左を向いていて、まなじりに先生を見た。振り抜いた左手が、角度をもって掲げられている。それで頰を張られたのだと灯里はようやく気づいた。遅れてじんわりと頰が熱くなる。右の耳からきーんと高い音が鳴った。


「……はぁっ!?」


 思わずカッとなった。これまで色んなところをぶたれたが、顔は初めてだった。


「は、じゃねぇよブス」


 ぱしん、と灯里の顔が今度は右を向く。


「下手くそがいっちょまえに口利いてんじゃねぇよ。いいか織部おりべ、おい。宿題だしてんのに出来ませんでした、じゃ話になんねーだろ」


「やってきたし!」


 スッパ――ンッ! と景気のよい音とともにまた左を向くが、ここまでくるともう意地だった。灯里は意地で喋り続けた。多分、灯里の中で何かが切れたのだ。


「やってきたけど上手に弾けないって、そう言っただけじゃん! ――っ!! いったいなぁもう! そもそも私――ッいってぇ! そんなすごい演奏したいなんて思ってないし! 私は普通でいいのに!! 友達とだって遊びたいのに!!! 」


「知るかよ。私のところに習いにきてんのはお前だろうよ。出来るようにして来いっつったろ、なぁ? お前のレベルとか目標とか、そんなもん私に関係ねーの。私は生徒全員を演奏家にさせるし、現にお前の年で人前に立ってるやつもたくさんいる。なのに、お前は何? 七年も私に教わっておいて、何になったんだよ? ――答えろよ、ブタ」


「知らないけど! ブタじゃないことは確かじゃねえの!」


 吐き捨てるように灯里は言って、胸ぐらをつかむ先生の腕を、楽器を持ったまま肘で振り払った。

 先生は乱暴にされた手首をさすりながら、苛ついているように見えた。



 ――――××××だよ、ブス。



 お前みたいなのをそう呼ぶんだよ、と先生は言った。


 やだな、と思った。よくわからない言葉でも、いい意味じゃないことだけは解った。それに、なんだかただの悪口じゃないような気がした。それでも難しいことばを使われて、反論の仕方がわからない。すごく悔しくて、目にいっぱい涙を溜めた。ぼやけた視界越しに相手を睨みつけるだけで精一杯だった。すると、


「そんなお前に友達なんて、いるわけないじゃんね。夢見てないで、私の言ったことに従ってりゃいいんだよ」


「――いるってば!!!」


 そうして灯里は楽器を叩き壊した。弓はその辺に捨て、両手で振りかぶって先生の目の前に叩きつけた。その反動でぼろぼろと大粒の涙が溢れ落ちた。足元で空洞に響くような間の抜けた音がして、楽器はあっさりと首から折れた。無意識だった。灯里はほとんどパニックになりながら、


「やめるから!!!!」


 一言だけ叫んだ。


 涙がどんどん奥から溢れてくる。悲しくはない。悔しかった。手にしていた木の屑は持ったまま、あと隅っこに置いてあったバイオリンケースを乱暴に取り上げ、ずかずかと歩いていく。散歩中の犬みたいに、バイオリンの胴が後ろを付いてくる。

 大げさな音を立ててドアを開くと、申し訳程度の待合スペースでレッスンを控えた生徒が目を丸くしていた。


「こんなところ、やめたほうがいいよ!!」


 後ろにいる先生にもちゃんと聞こえるように大声でそう言うと、


「おらぁ織部!! やめるなら一人で勝手にやめろっ!! 他人を巻き込むなっ!!!」


 息が止まるほどの大きな声に、灯里は肩を飛びあがらせた。


 先生はスリッパで床を踏みならしながら灯里に近づいてくるので、灯里は逃げるようにして外へ続くドアを開いた。ちらとだけ見た先生は鬼のような形相ぎょうそうをしていて、右手に鋭い剣のようなものを握って灯里に迫り、

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る