〈第11話〉 騎士様が酔っ払って帰ってきました

 積み上げられた資料の束や本を避けつつ、アメリアは一心不乱に床を磨く。


(……今朝のクラウド様、様子が変でした)


 きっと、大切にしている花と同じベッドで寝てしまい、花を傷つけていないか不安だったのだろう。

 しかし、所詮は花だ。

 それなのに。


 ――……勝手に触れて、本当にすまなかった。


 クラウドは酷く傷ついたような顔をしていた。


(私が勝手なことをしてしまったせいでしょうか……)


 ラベンダーの香りで、少しでも疲れを癒せればと思っていた。

 アメリアはただ、クラウドに恩返しがしたかったのだ。

 どこにも居場所のないアメリアを守ってくれている。

 彼にとっては、美しい花を拾っただけで、特別な思い入れはない。

 そう思っていた――今朝の反応を見るまでは。

 しかし、彼は魔法騎士だ。

 魔獣を一撃で仕留めた腕はこの目で見た。

 本当に、アメリアの魔法を見破れないなんてことがあるのだろうか。

 アメリアは、母の魔法道具がなければ魔法を使えない、魔法のド素人なのに。

 もし、クラウドが花の正体を見破っているとすれば――。

 花瓶に活けられずベッドに寝かされたことにも、何かと声をかけてくれることにも、花には不要なフルーツをわざわざ食卓に置いてくれたことにも、今朝の表情の意味も、辻褄が合うような気がする。


(でも、どうして私は咎められないのでしょうか)


 花に姿を変えて他人の家に居座っているのだ。

 普通なら、捕まって尋問されてもおかしくない状況である。

 それなのに、クラウドはどこまでも優しい。

 アメリアを見て、美しいと言ってくれた。

 ありがとうという感謝の言葉をくれた。

 謝らなければならないのはアメリアの方なのに、クラウドはいつもこちらを気遣ってくれる。

 図らずも同じベッドで眠った時、アメリアはドキドキして胸が熱かった。

 誰かのぬくもりにあんなにもドキドキするとは思わなかった。

 クラウドに出会って初めて、心臓が痛くなるくらいのときめきを知ったのだ。

 彼が優しすぎるあまり、アメリアの秘密を守ろうとしてくれているのなら。


「クラウド様への恩を返したいと思うのならば、私から正直に話さなければいけませんよね……でも」


 アメリアが正体を明かせば、きっとこの生活は終わってしまう。

 クラウドと一緒にいられなくなる。

 それが引っかかって、なかなか打ち明ける決心がつかない。

 完全に魔力が切れて、どうしようもなくなる時まで引き伸ばしたいと思ってしまう。


(私、いつの間にこんなにクラウド様のことを好きになっていたのでしょう)


 花としてここにいる限り、女性として愛されることはあり得ない。

 しかし、ディーナス男爵家の令嬢としても、クラウドに愛されることはないだろう。

 社交界デビューもしていない、礼儀作法よりも掃除ばかりしている、美しくもない本当のアメリアなんて。

 クラウドの側にいたいと思うならば、このまま花として彼を騙しながら側にいるしか方法はない。

 アメリアは、愛されたいなんて我儘は言わない。

 ただ、陰ながら彼を支えられれば、それでいい。

 命を救ってもらった恩を返したい。

 優しさを、大切にされるぬくもりを思い出させてくれたことにも。


「これも立派な我儘ですね。私は、誠実で優しいクラウド様を騙している、悪い女です」


 この報いは必ず受けるから。

 あと少しだけ。

 何も知らない顔をして、クラウドの側で咲いていたい。

 アメリアは雑巾を持っていた手にぎゅっと力を入れて、また床を磨き始めた。


 ***


 夕陽が落ちて、月が昇って夜が深くなっても、クラウドは帰ってこなかった。

 花の姿で待っていたアメリアは、不安になる。

 帰りが遅いとは聞いていた。

 しかし、こんなに遅くなるとは思っていなかったのだ。


(もしかして、クラウド様に何かあったのでしょうか)


 魔法騎士とは危険と隣り合わせの仕事だ。

 クラウドに何かあったらと思うと、心が冷えた。

 心配で、落ち着いていられない。

 強い風がびゅうと窓を揺らし、アメリアの不安をあおる。

 恐ろしい獣の鳴き声も聞こえた気がする。

 待っている時間が、永遠にも感じられた。

 早くクラウドの無事な姿が見たい。


(クラウド様……っ!)

 

 アメリアが祈り続けていた時、ふいに外から話し声が聞こえてきた。


「ちょっと、クラウド。自分で歩きなさいよ」

「む、無理だ……」

「ったく、飲み過ぎよ。いくら家に帰りたくないからって」


 ばん、と勢いよく扉が開かれた。

 ふらつくクラウドを支えているのは、細身の騎士服を着たきれいな人だった。

 すらりとした体躯では、クラウドのしっかりとした体を支えるのは難しいようで、足取りが危ない。


(ご無事でよかったです……でも、家に帰りたくなかったのですか?)

 

 こんな夜遅くまで、美人な騎士と酒を飲んでいた。

 それも、その理由が家に帰りたくないから。

 ズキズキと胸が痛む。


(私を手放したくないと言ってくれたではありませんか……)


 花である自分には、そんなことを言う資格はない。

 そんなことは分かっている。

 けれど、クラウドから向けられた優しい言葉たちにどうしても縋りたくなってしまう。

 クラウドのことが好きだから。

 アメリアが待つ家に帰りたいと思ってほしかったのだ。

 花の姿で側にいることを決めたのは自分で、花を相手に恋愛ができないことだって分かっているのに。

 自分の恋心を自覚した途端、失恋してしまったらしい。

 アメリアは、花である自分に優しくしてくれたクラウドしか知らない。

 他に大切に思う女性がいることを無意識に考えないようにしていた。

 自分は彼に相応しくないと思いながら、別の女性と一緒にいるところを見るのが嫌だなんて、本当に我儘だ。

 抑えなければと思うのに、嫉妬という感情が心を支配する。

 彼女は、アメリアでは絶対に立てないクラウドの隣に立って、酒を酌み交わし、愚痴を聞くことができる。

 その手に触れて、愛を伝え、抱きしめることも。

 アメリアがクラウドにしたいこと全部。

 彼女は何の罪悪感も、後ろめたさもなく、実行できるのだ。

 自分の嫉妬心に戸惑うアメリアは気づかなかった。

 クラウドを家まで連れ帰ったジュリアンが、ベッドの上に横たわるアネモネの花を見て顔色を変えたことに。


「げっ、本当に花をベッドに寝かせてる!? これはいよいよヤバイわね。どうにかしないと……ますます魔法騎士団が変人の集まりだと思われるじゃないっ!」

「俺はまとも、だ……っ」

「頭に花咲かせてるあんたが一番やばいわ! じゃ、あたしもう帰るから!」

「……ああ」


 ばたん、と扉が閉まる音が聞こえ、アメリアは美人騎士がいなくなっていることに気づく。

 そして、顔を赤くしたクラウドが一人で食卓に倒れ込んでいるのが見えた。

 どれだけ酒を飲んだのか、意識は朦朧としているようだ。


(大丈夫でしょうか)


 呻きながら、クラウドはテーブルに突っ伏している。

 しかし、ふと起き上がって、何かを求めて歩き出す――が、足元の本につまずいて派手に転んでしまった。


(クラウド様っ!)


 このままでは危険だ。

 酔っ払いの介抱をしたことはないが、昔使用人たちが話しているのを聞いたことがある。

 とにかく、水を飲ませて酒を抜くこと。

 今のクラウドが一人で水を飲むことができるとは思えない。


(あの方がしっかりと面倒を見てくだされば、クラウド様が苦しむことはなかったはずなのに……)


 クラウドに選ばれた女性だというのに無責任だ、とアメリアはムッとした。

 とはいえ、彼女に介抱されるクラウドを見ていられる自信もない。


(お酒を飲み過ぎて、記憶をなくす方もいると聞きました)


 きっと大丈夫だ。

 そう言い聞かせて、アメリアは初めてクラウドの前で人の姿に戻った。

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