〈第35話〉 騎士様を救うためなら何も惜しくありません

「アメリア、逃げるんだ」


 クラウドの言葉が届いた時には、アメリアは空中に投げ出されていた。

 花であるアメリアはふわりと空気に漂う時間が数秒あった。

 そして、暗闇に消えていくクラウドが見えて。

 とっさに伸ばそうとしても手はなくて。

 それならば共に落ちようと決めたのに、クラウドを飲み込むと床板が再び現れた。


(クラウド様っ!)


 何のためにクラウドのもとへ戻ってきたのか。

 アメリアは自分の無力さが悔しかった。

 すでにアメリアの体も魔力を使いすぎて限界で、人の姿に戻ることもできない。


「一番厄介な副団長を薬漬けにできれば、もう怖いものはないわねぇ」

「えぇ。次に会う時は、正気ではないでしょう」


 黒いローブをまとった男が、ゆっくりと部屋に入ってきた。

 色素の薄い金色の髪、白緑色の瞳。そして、目の下のひどいクマ。

 ローレンスが言っていた、ベアード博士の特徴と一致する。


(この人が、ベアード博士……)


 クラウドはどこに落ちたのか。

 彼に今何が起きているのか。

 問い詰めたいのに動けない。


「おや、このアネモネの花は?」

「さっき副団長が落としてったよ」

「ほう」


 ベアード博士は、興味深げに花姿のアメリアを持ち上げた。

 気持ち悪い。クラウドに触れられている時とは大違いだ。

 にたりと笑って、ベアード博士はアメリアをテーブルの上に置く。


「ったく、あの馬鹿娘と魔法騎士団のせいでせっかくの計画が台無しだよ。本当は解毒剤と称してアンポクスを騎士団に流通させようと思っていたのにさ。解毒剤がようやくできたって時に……」


ヴィクトリアはロープをベアード博士にほどいてもらいながら、忌々し気に話す。


「エルス殿が欲に走ってサンプルを先に出してしまったせいでしょうねぇ。魔獣も数匹放ったようですし」

「あぁ、本当に馬鹿な男だよ。カルヴァーグ家に騎士団が向かったという報告がなければ、あたしらも捕まっていただろうね。カルヴァーグ家に見張りをつけておいて正解だった」

「それで、これからどうするのですか?」

「もちろん、逃げるさ。予定ではディーナス男爵家の遺産を手にしているはずだったと思えば悔しいけどね、また誰かを脅すか騙すかして金は奪えばいい」

「さすが、盗賊団のお頭ですね」


 このまま、彼らは姿を消すつもりなのだろう。

 危険なアンポクスと魔獣の脅威を残したまま。

 クラウドを暗闇の中に放置して。


(クラウド様……っ!)


 先ほどまでぴくりとも動けなかったのが嘘のように、アメリアの体には力がみなぎっている。

 それは怒りを原動力にした一時的なもので、実際に魔力が回復した訳ではない。

 しかし、今のアメリアにとってそんな体のことはどうでもよかった。

 ただ、目の前の二人が逃げれば、クラウドの居場所は分からなくなる。

 あの地下の空間へ行くにはどうすればいいのか。

 どうすれば、クラウドを助けられるのか。

 それを知るために、アメリアは魔法を使い、人の姿に戻った。


「クラウド様を置いて、どこへ行くというの? 私の大切な人は今、どこにいるの?」


 突然現れたアメリアを見て、驚いたのはヴィクトリアだけだ。


「あぁ、やはり。母親が変身魔法を持っていたと聞いていたから、探しても見つからないのなら、娘のあなたも魔法を使えるのだろうと思っていたんだよ」


 ベアード博士は予想が当たったと嬉しそうに笑う。

 そして、笑顔でとんでもないことを言い始めた。

 

「ねぇ、僕と取引しないかい? アンポクスの材料には魔法使いの血が必要なんだ。そろそろストックの血が尽きかけていてね。薄めるのにも限界だったんだよ」

「な、何を言って……」

「さっきの副団長は君が変身できることを知っていたんだろう? どういう関係かな? 助けたくはない? 彼は今、アンポクスの原液を霧状にして充満させた地下にいる。数分は息を止められたとしても、数十分となれば、絶対にアンポクスを体内に取り込んでしまうだろうね。強い魔力の持ち主なら、少し体内に入れただけで正気を失って、酷い場合には自らの魔力で死ぬ」

「そんなっ!」

「でも、僕なら解毒剤を作れるし、彼を助けられるよ」

「クラウド様を助けてください!」

「取引だと言っただろう? まずは君の血を僕にくれる? あぁでも、さっき花の姿になっていたよね? もし花の姿の時に花びらをちぎれば、流れるのは血なのかな? それとも、甘い蜜になるのかな?」


 恐ろしいことを楽しそうに口にして、ベアード博士はアメリアに近づいてくる。

 その手には、いつの間にかナイフが握られていた。

 怖い。アメリアの体は震える。

 しかし、彼との取引に応じれば、クラウドを助けられる可能性が高まる。

 アメリアの血ぐらい、クラウドの命を助けることに比べれば惜しくはない。


「分かりました。これでいいですか」


 アメリアはベアード博士の手からナイフを奪い、手の平にあてた。

 一筋の赤い線が入り、じわりと血がにじむ。

 痛みはあまり感じなかった。

 クラウドを失うかもしれない恐怖と怒りで感覚が麻痺してしまっているのかもしれない。


「あぁっ、もったいない!」


 ベアード博士は慌ててローブのポケットから小瓶を取り出し、アメリアのこぼれる血をすくう。


「でもこれ以上は、クラウド様の無事が確認できてからです」

「取引成立だ」


 ベアード博士がにんまりと口元を歪め、頷いた。

 そこに口を挟んだのは、ヴィクトリアだ。


「ベアード! 本気であの騎士を助ける気かい!?」

「えぇ。あなたの時よりも研究に役に立ちそうな取引ですからね。邪魔はしないでください」

「な、何を……!?」


 ベアード博士はヴィクトリアが最後まで言葉を発する前に、薬を嗅がせて意識を奪った。

 それを平然とやってみせたベアード博士に、アメリアはゾッとする。

 しかし、彼はにこにこと笑みを浮かべて、アメリアに向き直る。


「この部屋には仕掛けがあってね。そこの床に落とし穴のスイッチがあるんだよ」


 あっさりと部屋の仕掛けについて教え、実際にスイッチを足で押してみせる。

 すると、先ほどクラウドがいた場所にぽっかりと穴が開いた。

 そこからは、黒紫色の霧が漂ってきた。


「あぁ、吸わないように気を付けてね」


 ベアード博士に忠告され、アメリアは手で口と鼻を抑える。

 このアンポクスの霧が充満した場所にいたクラウドは無事だろうか。


(クラウド様が落ちて、何分経ったのでしょう……)


 無駄なやり取りがあったせいで、息を止められる限界はとうに過ぎている。


「君の大切な騎士は、果たして正気を保っているかな?」


 そう言って、ベアード博士が落とし穴を覗いた直後、彼は何かの衝撃を受けて吹き飛んだ。

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