〈第30話〉 彼女に近づいたのは
最初はただ、利用するつもりで近づいた。
実母は幼くして亡くなり、父である男爵は仕事三昧。
継母との関係もうまくいっているとは思えなかった。
もしうまくいっていれば、下働きの服を着て屋敷の裏手で泣いている場面など見ることはなかっただろう。
「こんにちは。そこで何してるの?」
まさか男爵家の令嬢だとは思わずに、ローレンスは声をかけていた。
「あ、申し訳ございません。お客様ですか? こちらは裏口になりますので、玄関までご案内します」
物陰に隠れていた彼女は、ローレンスの声に慌てて振り返る。
肩口で揺れる青紫色の髪、少し潤んだアメジストの瞳。
とても可愛らしい顔をしていた。
「いや、案内はしなくていいよ。僕は父上に連れられて来たんだけど、まだ商談とかよく分からなくてさ。暇を潰そうとぶらぶら歩いていたんだ。だから、話し相手になってくれると嬉しいな」
「……話し相手、ですか?」
「そう。まずは君の名前を教えてくれる?」
ローレンスが人好きのする笑みを向けると、アメリアは戸惑いながらも頷いた。
「アメリア・ディーナスです」
その名に驚いたが、ローレンスは動揺を悟られないように話を続ける。
「ディーナス男爵家のご令嬢だね。僕の無礼を怒っているかな?」
「いいえ。私は令嬢と呼べるようなものではありませんから」
「よかった。僕も、お貴族様との付き合いは苦手なんだ。アメリアとなら、いい友人になれそうだよ」
「友人……」
「アメリアに会えるのなら、これから父の仕事についてくるのも悪くないな」
心を許せる味方が少ないアメリアの心に居場所を作るのは、たやすかった。
簡単に人を信じすぎる彼女を哀れに思いながら、ローレンスはにこやかな優しい青年を演じ続けた。
すべては、ディーナス男爵家との繋がりを深めるために。
カルヴァーグ家は、それなりに稼いでいた。
外国の品を仕入れたり、国内の商品を取り扱ったり。
中でも安定して需要があったのは、ロイシャ地方の野菜や薬草だった。
それらは、ディーナス男爵家の許可を得て、販売している。
しかし、それはカルヴァーグ家だけではない。
ディーナス男爵家は他の商家とも取引をしているし、魔法騎士団との繋がりは、商家よりも古い。
カルヴァーグ家は、さらに上を目指したかった。
王都でその名を知らぬ者はないような大きな商会へと成長させたかった。
そのためには、貴族との太い繋がりが必要だ。
ただの取引相手としてではなく、社交界にも招待されるような。
そして、父がローレンスに求めたのは、アメリアとの結婚だった。
ローレンスがアメリアと結婚し、ディーナス男爵の後を継げば、必然的に薬草や農作物の権利も得られる。
カルヴァーグ家が独占販売することも可能だろう。
ディーナス男爵は娘の結婚に関して、娘の意思を尊重したいと話していたようだ。
政略的な縁談には頷かないかもしれない。
だから、ローレンス自ら動くことにした。
アメリアは社交界デビューもしていなければ、屋敷から出ることはない。
出会うためには屋敷に出入りする必要があった。
しかし、商談として会いに行っても、対応はヴィクトリアばかりで、アメリアには会えなかった。
使用人の若い娘がいただけだ。
まさかその使用人がアメリア本人だったとは思いもしなかったが。
そうして、無事にアメリアと知り合えたローレンスは、少しずつ距離を詰めていった。
焦らずとも、アメリアに近づく男は自分だけだった。
アメリアがローレンスの名を呼び捨てにしてくれるまで、約一年かかった。
そろそろ求婚しようと思っていた時に、ディーナス男爵の不幸な事故が起きたのだ。
ローレンスにとっては、またとないチャンスだった。
「こういう時に言うことじゃないかもしれないけど、僕はずっと君のことが好きだったんだ。だから、君は一人なんかじゃない。泣きたい時は僕の胸を貸すよ」
傷心のアメリアに優しく声をかければ、初めて彼女がローレンスにすがって泣いた。
お伺いを立てる男爵もいなくなり、アメリア本人もローレンスを頼ってくれている。
これで、簡単にディーナス男爵家を手に入れることができる。
懸念すべきは、アメリアを使用人同然として扱っていたヴィクトリアだけ。
そう、思っていたのだが。
「男爵夫人と取引した。もうお前が令嬢と結婚する必要はない」
「どういうことですか?」
「お前にもそろそろ話してやろう」
父はにこりと笑って、話し始めた。
ここ最近、他の商家が王都で成功していることに焦りを覚えていたこと。
取引先を他家の商家に変えられることも少なくなかった。
しかし、ディーナス男爵は一定数以上の販売を許してくれなかったし、いくら特別な条件を付けたいと願っても契約を変更することもなかった。
商会独自の目玉商品や特別感がなければ、商売の世界で生き残ってはいけない。
父はディーナス男爵の頑固さと生真面目さに苛立ちを募らせていた。
だからこそ、普段なら乗らない危険な賭けに乗ってしまったのだろう。
「カルヴァーグ家は、これから人々を救う商家となるのだ」
そう、父は新たな商品を手にしていた。
正確には、これから商品を生み出すものを。
それは、他に情報が漏れないように、細心の注意を払って隠されていた。
「初めまして、ローレンス君。私はベアード・モルコット。魔法薬の研究者で、君の父上に支援を受けている者だよ」
彼が研究しているのは、この国を悩ませる違法魔法薬アンポクスを無効化できる薬だ。
しかし、十分な研究ができておらず、まだ完成はしていない。
何故なら、アンポクスは持っているだけで罪となる。
彼は解毒剤を開発するために研究所を出て、一人で研究を続けていたのだという。
この国を救うための薬なのに、国が力を貸してくれないのだと彼は嘆いていた。
そんな彼をこれまで守っていたのが、一見粗野な印象を受ける男たち。
そして父も、ベアードの研究を偶然知り、支援することを決めたのだという。
いずれその魔法薬が完成すれば、国のために貢献した商家になれる。
王立研究所でもなく、魔法騎士団でもなく、ただの商家であるカルヴァーグ家が。
しかし、このベアードとアンポクスの存在をヴィクトリアに知られてしまったのだ。
そのことを黙っている条件として、ヴィクトリアは父に様々なことを要求した。
アメリアを殺すための毒も、そのうちのひとつ。
父が紹介したのはアンポクスだった。
アメリアの実母は魔女。アンポクスの研究実験のためにも是非被検体にしたいとベアードも乗り気だった。
犠牲になるのは、ただ一人残された哀れな娘だけ。
「あの娘も、味方がいない中で生きていくのは辛いだけだろう。早く両親に会いたいはずだ」
本気で言っているのかと耳を疑った。
父の野心が、野望が、その目をくらませたのだ。
ローレンス自身も、世の中は金がすべてだと思って生きてきた。
人を騙すことにも、裏社会で金儲けをすることにも、罪悪感を覚えたことなど一度もなかった。
だから、アメリアを利用するために近づいた時も、平気だった――はずだった。
「ローレンス、助けてくれませんか」
彼女が唯一頼れる存在は、もう自分だけだ。
ローレンスは迷っていた。
このまま放っておけば、彼女は殺されてしまう。
「それなら、僕と駆け落ちしよう」
いつの間に情がわいていたのか、駆け落ちを提案したのは、ほんの出来心だった。
行く当てなどない。すぐに見つかって、殺されるのは目に見えていた。
「君を殺すための追手がきていないか確かめてくるだけだよ。絶対に、ここを動かないでね」
そう言って、アメリアを置いていったのは人気のない林道。
この近くに、ベアードの潜伏地がある。
ローレンスは彼のもとへ行こうとしていたのだ。
アメリアが持っていた荷物と金で、新たな取引を申し出るために。
しかし、ベアードはいなかった。
ローレンスは彼の護衛たちに話をしたが、取り合ってもらえなかった。
そして、アメリアの姿が消えた。
代わりに殺されそうになっているのはローレンスの方だ。
アメリアと死ぬ覚悟を持って駆け落ちをした訳ではない。
ローレンスはすぐにアメリアを置き去りにした場所を吐いた。
しかし、アメリアは姿を消していた。
周辺のどこにも、彼女の姿はなかった。
(あぁ、なんだ。一人でも逃げられたのか)
――自分を待っていてくれなかったのか。
もし待っていれば、彼らに見つかっていたことは考えずに。
そんな喪失感に胸が締め付けられて、笑みが浮かぶ。
助けようなんて、思わなければよかった。
やはり情など抱くものではない。
アメリアを逃がしたと責められて、閉じ込められて。
彼女がどうなろうと知ったことではない。
自分は関係ないのに。
あんな女、別に好きでもなんでもない。
ただ、泣き顔が。
か細い手で自分に縋る姿が、とても。
今まで感じたことのない庇護欲を刺激した。
それだけだ。
それなのに、アメリアはローレンスを助けるためにこの手を取った。
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