〈第10話〉 仕事中にも彼女のことを思い出してしまった
ディーナス男爵家は、コラフェル地方の隣、ロイシャ地方に領土を持っている。
王都の喧騒からは離れた、田園風景が広がるのどかな土地だ。
しかし、田舎だと侮ってはいけない。
この土地の安定した気候でしか栽培できない薬草があるのだ。
それに、ロイシャ地方の野菜や果物は栄養価が高く、美味しい。
薬草や農産物による安定した収入がある。
そのため、それらの管理をしているディーナス男爵――ハロウドは多忙だった。
魔法騎士団の【守護】が取り扱う薬草も、ロイシャ地方のものがほとんどだ。
だから、クラウドも何度かハロウドを王城で見かけたことがあった。
魔獣に襲われた日も、彼は王都へ薬草を届ける途中だったという。
(不運な事故か、それとも……)
まだかなりの精神的ダメージは残っていたが、クラウドは仕事モードに頭を切り替える。
しかし、ディーナス男爵家の屋敷に着いてすぐ目に入ったのは、庭に咲く色とりどりの花だった。
その中にはアネモネの花もあったが、赤や白ばかりでクラウドが焦がれている色はない。
「青紫がない。こんなところでも避けられてしまうとは……もう俺の視界にも入りたくないということだろうか」
ずん、とまた落ち込んできた。
クラウドの隣では、ジュリアンが口をあんぐりと開けている。
「うわぁ、本気で花に恋してるじゃない……」
そんなドン引き発言もクラウドの耳には入らず、どこかにあるかもしれない青紫色を探す。
しかし、やはりどこにもない。
「あの、どちら様でしょう? うちに何か御用でしょうか?」
庭先での物音が聞こえたのだろう。
屋敷から、黒いドレスに身を包んだ美しい貴婦人が現れる。
おそらく、ディーナス男爵夫人のヴィクトリアだろう。
普通の男ならば、その美貌に見惚れていたのかもしれない。
しかし、クラウドは特に何も思わなかった。
(男爵が亡くなって、悲しみに暮れている、という訳ではなさそうだ)
金色の髪は結い上げられ、胸元にはダイヤが輝いている。
彼女の白い肌に黒いドレスという出で立ちは、慎ましさよりも妖艶さを演出していた。
貴族の社会では、夫婦が愛し合っている方が珍しい。
だから、ヴィクトリアが悲しんでいないからといって、おかしなことではないのだ。
それなのに、クラウドは少しの違和感を覚えた。
「これは失礼した。私は魔法騎士団副団長のクラウドだ」
「同じく、魔法騎士団所属のジュリアンと申します」
隣では、同じようにジュリアンも名乗っている。
魔法騎士団と聞いて、ヴィクトリアはかなり驚いているようだった。
「わたくしはディーナス男爵家のヴィクトリアですわ。魔法騎士団の騎士様が来るなんて、もしかしてこの辺りで魔獣の被害があったのでしょうか?」
不安そうに揺れる青い瞳にも、クラウドの心は凪いだまま。
大丈夫、と安心させる言葉すら惜しくて、すぐに本題に入った。
「半年前、ディーナス男爵が亡くなった事故について、少し話をしたいと思って参りました」
そう言うと、ヴィクトリアはハッと息をのんで、クラウドたちを屋敷内へと招きいれた。
屋敷には、出迎える使用人はいなかった。
そういえば、仮にも男爵夫人が自ら庭への侵入者を確認しにくるというのもおかしな話だ。
普通なら、フットマンや執事が客人を案内するはずである。
玄関ホールも、かろうじて体裁を整えてはいるが、よくよく見れば花瓶の花は萎れているものが混じっているし、薄っすらホコリが積もっている。
(もしかして、男爵夫人が一人で住んでいるのか?)
小さな違和感が、クラウドの中に積もっていく。
応接間に案内されても、使用人の姿はない。
カーテンは閉め切られ、室内は日中だというのに薄暗い。
「申し訳ございません。夫が亡くなってから、少しふさぎ込んでいたもので」
ヴィクトリアは薄く微笑んで、部屋のカーテンを開ける。
日の光が差し込むと、ホコリが舞っている様子が見えた。
この応接間は本当に使われていなかったのだろう。
「どうぞ、おかけになってください。何のおもてなしもできませんけれど」
テーブルを挟んで、向かい合わせに座る。
こちらは客として来たわけではないのでかまわないが、貴族の屋敷でお茶菓子ひとつ出てこないのはなんとも不思議な心地だった。
「失礼ですが、この屋敷に使用人は?」
「おりませんわ。少し、事情がありまして……」
そう言って、ヴィクトリアは長いまつげを伏せた。
同情を誘う仕草に、ジュリアンが声をかける。
「その事情をお伺いしてもよろしいですか」
「えぇ。実は……夫が亡くなってから、義娘が駆け落ちをしたのです」
「駆け落ち、ですか」
予想だにしない単語が飛び出してきた。
たしかディーナス男爵家には一人娘がいたはずだ。
前妻のレイニアが産んだ娘――アメリアが。
社交界デビューしていてもおかしくない年齢だったと記憶しているが、クラウドは会ったことはない。
しかしそれは、クラウドが社交の場を避け続けていたせいかもしれないと推測する。
「あの子は可愛い顔をして、とんでもない悪女でしたから……」
ヴィクトリアが語るアメリアという娘は、酷いものだった。
後妻となったヴィクトリアへ毎日のように嫌がらせをし、暴言を吐き、暴力的で、使用人にも我儘放題。
男爵家の金を使い込み、使用人の給金さえも惜しくなり、全員をクビにした――という。
「よくお一人で耐えられましたね」
涙を流すヴィクトリアに優しく声をかけたのは、ジュリアンだった。
クラウドは黙って唇を引き結んでいる。
「……ありがとう、ございます」
ヴィクトリアが白いハンカチで涙を拭った。
そのハンカチには、可愛らしい花の刺繍が入っていた。
クラウドは何故か、その刺繍から目が離せなかった。
思い浮かべたのは、ただ一人心に住まう可憐な少女で。
(俺を、待っていてくれるだろうか)
一人であの場所で誰かを待っていた彼女が、自分ではなく別の男の手を取っている場面を見てしまったら。
クラウドはきっと、冷静ではいられないだろう。
想像するだけで、彼女の存在はクラウドの胸を焦がす。
しかし、今は仕事中である。
刺繍の花を見るだけで思い出してしまうなど、かなりの重症だ。
「今回、お訪ねしたのは、ディーナス男爵のことで確認したいことがあったからなのですが――」
そうして、ハロウドの死について少しだけ話をして、ディーナス男爵家を後にする。
目的であったアンポクスについての情報は、ヴィクトリアからは得られなかった。
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