第30話 職場見学日。隠れ家イタリアン。下
ここの店の野菜は美味い。あと、珍しい物が多い。
店長さんに聞いたところ、毎朝、鎌倉から直送されてくるそうだ。新鮮な野菜はそれだけで美味なのだ。……これが大人になったってことか。
パンを千切りながら、八月朔日さんを慰める。
「あんまり気にすることはないよ。誰しもが通る道だから。俺も、最初の数ヶ月は全然、分からなかったしね」
「……篠原さんも、ですか?」
「うん。最初の一週間はとにかく憂鬱だったなぁ……」
新人時代を思い出し苦笑する。
元々、経理の勉強なんてしたことがなかったし、数学の大の苦手だった。
あの頃、電話に出て、頓珍漢な対応してしまった相手の人達には時折、笑われながら褒められたりもする。
『あの緊張してた子がこんな風に育っていくんだものねぇ……篠原君、よく頑張ったわね』。
恥ずかしいような嬉しいような。
俺は八月朔日さんへアドバイスをする。
「アナログかもしれないけれど、一枚、基本の伝票のコピーをを手元に置いておくだけで随分と変わるよ。決算はうちの会社の仕訳って特殊だから、こればかりは慣れだけどね」
「……なるほど。勉強になります」
「篠原君が先輩風を吹かしてるのは、解釈不一致だねー」
四月一日が茶化してくる。うぜぇ。
……新人時代、此奴に習ったことを、俺が教えることになろうとは。人生。
少しばかり、黄昏ていると店員さんがパスタを運んで来てくれた。
「お待たせしました。バジルのパスタとボンゴレ、カルボナーラです」
「わぁぁぁ……美味しそう♪」
八月朔日さんが目を輝かせる。
たくさんのアサリと白ワインの香り。これも美味いんだよなぁ。
まぁ、今は――俺と四月一日の前に置かれたのはシンプルなバジルパスタと、カルボナーラ。
大エース様がニヤニヤ。
「篠原君、どうせなら分け合う? 私は構わないけど。すいません、小皿を貰えますかー?」
俺の答えを聞く前に店員さんへ声をかけ、四月一日はさっさと皿を入手。
さっさとパスタを半分ずつに分けてしまった。
八月朔日さんは「え? ええ!?」と少しだけ驚き、俺の顔を見た。
「気にしないで。ただ、八月朔日さんは、こうなっちゃ駄目だよ?」
「え、えーっと……」
「どうせなら、どっちも食べてみたいでしょ? この前、相席になった時、お互いボンゴレ食べたし」
「……よく覚えてますね」
本当にうぜぇ。
基本的に、好物が似通っているので、同じ物を注文する確率も上がってしまうのだ。そして、二人で来る時はシェアするのが基本路線なので、別々な物を頼む。
――閑話休題。
俺は八月朔日さんを促す。
「さ、食べて食べて。ここのパスタは本当に美味しいからね」
「はい!」
まだ女子大生の女の子が、フォークとスプーンを使いボンゴレを食べ始める。
……育ちの良さが分かるな。
次いで目の前の四月一日も上品に食べ始めた。
こいつもまた、結構な御家柄のお嬢。正月、飲ませてもらった『黒龍』。中々、とんでもない値段だったし……。
この中で唯一、ド平民の息子である俺はフォークのみ。所詮は野郎なのだ。
ペーストのバジルで、緑色のパスタを食べる。
――相変わらず美味い。
使われているのはバジルと、香草くらい。
なのにとんでもなく美味い。
この味は、家じゃ出せないんだよなぁ。
いきなり、四月一日が紙エプロンを手に取り、俺の口元へ差し出してきた。
「篠原君、口、汚れてる」
「あ……す、すいません」
「まったく、後輩の前なのに! 八月朔日さんはこういう男に引っかかっちゃダメよ? 大変だから」
「え? あ、はぁ……」
「…………」
再びニヤニヤする大エース様。
こ、こいつ……俺の先輩としての威厳を殺すつもりかよ!?
今日の四月一日幸は本当にうぜぇ。今晩、覚えてやがれ。
……そう言えば、この二人、名前同じなのな。
『幸』と『さち』、か。
※※※
食事を食べ終えると、お楽しみのデザートが運ばれてきた。
八月朔日さんはティラミスを見て歓声。
「わぁ、わぁ! 可愛い♪」
幼く見えて、可愛――視線。
目の前で四月一日が、珈琲を飲みながら微笑んでいる。
……少しばかり不機嫌な御様子。何でだ??
俺は怯みつつ、苺のソースが添えられたパンナコッタをスプーンですくう。
甘味と酸味が程よい。
八月朔日さんが、聞いてきた。
「篠原さん、それって何ですか?」
「パンナコッタだよ。何時もはアフォガードなんだけど、偶にはね」
「アフォガード、美味しいですよね。わぁ♪ 私、入社したら、今度はそれにします!
「うん、是非是非」
「……篠原君、鼻の下が伸びてるわよ?」
四月一日が冷たく指摘してきた。
俺は珈琲を飲み、冷静に返す。
「いいえ、そんなことは」
「伸びてました」
「伸びていません」
「伸びてた!」
「…………あの!」
「「何?」」
八月朔日さんの言葉に、二人して反応する。
すると、興味津々な様子で俺達を見つめた。
「も、もしかして……御二人って、お付き合いされてるんですか?」
「「…………」」
四月一日と顔を見合わせ、目配せ。
……社内でそんな噂を立てられるのは面倒くせぇ。
二月末の旅行も行き辛くなるだろうし。
肩を竦め、パンナコッタを食べ進める。
「まさかまさか。実は俺達、高校の同級生同士なんだ。……社内では先輩で、こう見えて偉い人なんだけどね」
「その割には尊敬が足りないように思うけど? 私、高校卒業してすぐにこの会社で働き始めたの。篠原君は高校時代の話をたくさん知っていて、からかって虐めてくるのよ。酷いでしょう?」
「は、はぁ」
「……おい、あんまりふざけたことを言ってると、お前の恥ずかしい話を暴露してもいいんだぞ?」
「私、恥ずかしい話なんてないもの。それとも――篠原君が先輩に告白して玉砕。終電までカラオケに付き合った話とかする?」
「くっ!」
ひ、卑怯なっ!
自分の失態は話が話なだけに、こんな所で軽く話せる内容じゃないのを見切った上での攻勢かっ!!
お、おのれ……四月一日幸っ!!! それでも、東京支店大エースかっ!!!! 恥を知れっ!!!!!
内心で歯噛みしながら、言葉を絞り出す。
「…………八月朔日さん、本当に気を付けてね。こいつ、想像以上に性格悪いから。外見に騙されないように」
すると、四月一日は珈琲カップを掲げ、頬杖をつき、余裕綽々の表情で切り返してきた。
「あらぁ? もしかしてぇ、外見は綺麗だって認めてくれているのかしらん? 篠原君、そういうことはしっかりと、言葉にしてほしいわね★ ほら、言ってみて? 『四月一日幸さんは、綺麗です』って♪」
「うぐっ!」
「え、えーっと……」
新人さんな女の子が困った顔になる。
……まったく、こいつは。
俺はパンナコッタを食べ終え、席を立つ。
「……ちょっとお手洗い」
「あ、はい」「行ってらっしゃい」
二人へ声をかけ、階段を降りる。
ようやく、ランチの客が引き始めたようだ。
三十代の店長さんへ挨拶。
「御馳走様でした。今日も美味しかったです。お勘定、お願いします。相席になった奴の分もまとめて払います。知り合いなんで」
「はい。四月一日さんですよね? 珍しい苗字なので覚えています」
「今度の子は、八月朔日で、『ほずみ』さんです」
店長さんは目を丸くした。
「……それはまた。三千円になります」
「はい」
支払いをしつつ、四月一日の携帯へメッセージを送る。
『払っといた。八月朔日さんを連れて、俺のコート持って来てくれ』
『りょーかい。金曜日夜の予約もしといてー。ワインでピザ、食べたくなった! 月末旅行の打ち合わせしたいっ!』
『ほいよ』
俺もそう思っていたので、あっさりと了承。
店長さんへお願いする。
「今週、金曜日の夜の予約って――まだ、大丈夫ですかね?」
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