第29話 職場見学日。隠れ家イタリアン。上
「おはようございます」
「お! 来たな、篠原」
二月第二週の水曜日。
出社すると俺を石岡さんが待っていた。楽し気だ。
「――もう来てるぜ、新人さん。今は部長と話してる」
「早いですね」
時計をちらり。
まだ8時だ。8時半までに来てくれればいい、連絡しておいたんだが。
「仕事はともかく、昼飯くらいは奢らんとな。店、選んでおいてくれ。……俺も全力で参加するつもりだ」
「了解です」
コートをかけ、自分のパソコンの電源を入れる。
丁度、部長が会議室から出てきた。緊張した様子の女性の姿が見えた。
俺は立ち上がり、廊下の自販機へ。
缶コーヒーと紅茶を買い、会議室をノックし開ける。
すると、ガチガチに緊張した様子の新人さんが座っていた。
耳が隠れるくらいの淡い茶髪で小柄。容姿は整っていて、瞳が印象的だ。面接時に見かけたスーツを着ている。
机に、缶コーヒーと紅茶を置く。
「おはようございます。総務の篠原です。
「あ、ありがとうございます……では、紅茶で」
「はい」
紅茶を手渡し、空いている椅子へ腰かける。
缶コーヒーを開け、微笑む。
「緊張してる?」
「は、はい……で、でも、私がお願いしたことなので……」
「あ、そうなんだ。大学生は、この時期卒業旅行とか計画するんじゃ?」
「友達は海外とかにも行ってますね……。私も、今月末に行くつもりです。国内ですけど。あ――ち、ちゃんと自己紹介していませんでした。八月朔日さちです」
「改めて、篠原雪継です。八月朔日さんが総務配属になったら、一応先輩になるね。よろしく」
「は、はい」
どうやら八月朔日さんはとても真面目な子らしい。
……考えてみると年齢的には俺とそんなに変わらないのか。
俺は席を立つ。
「それじゃ、また後で。そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。気軽にいこう」
「が、頑張ります」
※※※
朝礼が終わり、社長と三十分程話した後、女性秘書の光原さんに案内されて八月朔日さんが総務へやって来た。
石岡さんが近づいて行き何やら会話。
次いで、俺の傍へ八月朔日さんを連れてやって来た。
隣の空いている椅子を指差す。
「それじゃ、八月朔日さんは今日一日、篠原の隣だから。――おい、篠原! 可愛いからって、手を出すんじゃねーぞ?」
「人聞きが悪い。八月朔日さん、今日一日よろしく」
「よろしくお願いします! 篠原さん!」
眩しい笑顔だ。
元気があって大変よろしい。
早速、席に座った八月朔日さんに話しかける。
「えーっと……当たり前だけど、経理の仕事はしたことがないよね?」
「は、はい。一応、簿記は一級を持ってます」
「一級……」「一級……」
俺は思わず呻き、目の前の石岡さんもまた呻く。
うちの会社で簿記一級とか持っているの、総務部長だけなんじゃ……。
どうやら、うちに将来配属される予定の新人さんはとても優秀な子らしい。
「? 篠原さん?? あの……」
「ああ、ごめんごめん。それじゃ、午前中はま簡単な経理伝票を一緒に切ってみようか。簡単かもしれないけど、まぁ、肩慣らしで」
「はい! 頑張りますっ!」
どうやらやる気十分のようだ。
俺は自分のPCを立ち上げながら、伝票を作るための引き落とし金額が書かれた請求書と伝票を何枚印刷する。
「とりあえず、伝票を作ってみよう。分からないことがあったらすぐに聞いていいからね」
※※※
「お……もう、お昼か。篠原。行ってくれ。…………俺は死力を尽くした。が、どうやら、駄目らしい……」
八月朔日さんとのお昼を楽しみにしていた石岡さんが、暗い視線を机上に落とした。先週、出張にいたこともあり、書類がうず高く積まれている。
「はい。八月朔日さん、昼飯に行こうか」
「…………はい」
朝の様子と打って変わり、落ち込んだ様子。
殆ど伝票を切れなかったし、決算作業についても「???」となっていた。簿記資格がある、と実務能力はイコールではないのだ。
コートを羽織り、彼女を連れビルの外へ。
十二時よりも少し早いので、まだ人通りは少ない。
これなら、あの店にも入れるかな?
振り返り、声をかける。
「食べれない物とかある?」
「あ……何でも、食べられます」
「なら、とっておきの店に行こうか。ちょっと入り組んでいるから、はぐれないように着いて来て」
「は、はい」
会社前の横断歩道を渡り、路地裏へ。
うちの会社ある地域は東京でも一等地と言っていい場所だけれど、未だに古い建物も多く残っている。
迷路みたいな路地を進み――見えてきたのは、白い建物。入口には何故かイタリア国旗。
八月朔日さんが目を丸くする。
「こんな所にお店が……」
「ここら辺って、探すと美味い店多いから、明日以降は探してみるといいよ。楽しいし。さ、入ろう」
そう告げ、店の中へ。
お客さんはこの時間でも多い。そろそろ、満員になりそうだ。
顔見知りの男の店長さんから声がかかる。その後ろには今日のランチメニューが書かれた黒板。
「いらっしゃいませ。ごめんなさい、席が埋まってきているので、相席でも大丈夫ですか?」
「大丈夫です。今日も混んでますね」
「ありがとうございます。二階へどうぞ」
狭い階段を上がり、二階へ。
店員さんへ案内されて窓際の席へと俺達は向かい――
「お?」「……む?」
一人、旅行雑誌を読みつつ料理を待っている一見、綺麗なOLと目が合った。
――『東北のスキー場と温泉特集』。
余程、楽しみにしているらしい。
俺は八月一日さんを促す。
「どうぞ座って。あ、コートは適当に。その人は、四月一日幸さん。東京支店の営業さんだよ」
「は、はい! し、失礼します、四月一日さん」
「どうぞ~。可愛い後輩は大歓迎よ~。可愛くない篠原君は、かえれっ!」
「どうしてそうなる」
座り、置かれているメニューを開いて新人さんへ。
――ここのランチは千円きっかし。
それでいて、合計四種類から選択出来、サラダ、パン、珈琲に、デザートも選択制と破格さ。
味も美味の一言。夜もよく使っている。
八月朔日さんは一生懸命選択中。
「ボンゴレ美味しそう……でもでも、カルボナーラも……あ、バジルのパスタもあるんだ……。うぅ……選べないよぉ……」
どうやら、この子の素はとても可愛らしい子のようだ。微笑ましい。
そんなことを思っていたら、足に激痛。小声で抗議。
「っ! ……てめぇ」
「え? どうかしたの? ……鼻の下を伸ばして、嫌らしいっ」
本日の大エース様は御機嫌斜めのようだ。訳が分からん。
俺は八月朔日さんに尋ねる。
「決まったかな?」
「あ、はい! ボンゴレとティラミスにします!! 飲み物は紅茶で」
「ほい。なら、俺はバジルとパンナコッタかな。そっちは?」
「カルボナーラとパンナコッタ。すいません」
四月一日が店員さんを呼び、ささっと注文する。
「彼女はランチC。ティラミスと紅茶。私はランチAパンナコッタ。彼はランチDで同じくパンナコッタ。。二人共、珈琲で。砂糖、ミルクはいりません」
「かしこまりました」
注文を終え、水を一口。
四月一日の奴は旅行雑誌を再び読み始めた。プライベートじゃない時のこいつは、案外と無口である。
……猫の肉球マークの付箋を打ちまくっているのは気にかかるが。
俺は八月朔日さんへ話しかける。
「さて、午前中の仕事、どうだったかな?」
「……殆ど何も出来ませんでした。知らない勘定科目ばかりだし、決算もちんぷんかんぷんで……」
しゅん、とした様子で素直に八月朔日が反省する。
……うわぁ。俺も配属された当初はこうだったなぁ。
前方から視線を感じる。そこ、五月蠅いぞ。
黙って、出来る風の擬態をしてろ。まぁ、出来るのは本当だが。
サラダとパンが運ばれてきた。
俺はしょげている数ヶ月後の後輩を促す。
「食べながら少しだけ反省会をしようか。でも、大丈夫。誰だって、最初はそんなもんだから。みんながみんな、何処かの大エースさんみたいに、鋼鉄の心臓を持っているわけじゃないしね」
「……篠原君? それ、誰のことかしら?」
四月一日が雑誌を閉じ、鞄に仕舞った。
俺は、肩を竦める、
「あ、御自覚はおありで?」
「可愛くない後輩!」
四月一日は俺をギロリと睨みつけ、サラダにフォークを突き立てた。
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