第33話 胸中

「……私はまた、失敗してしまったということでしょうか」

 出て行ったマルセルとセシリエの気配が完全になくなったことを確かめてから、私はルチアに言いました。

 ルチアはやるせなさそうに首を振りました。

「それは何をもって失敗と呼ぶかによるんじゃないかしら。もしあなたが、マルセルの気持ちを損なわずにいることを望むのなら、確かに失敗したと言うことになるでしょうね」

 言葉を濁すように持って回った言い方が、状況の難しさを端的に表していました。

「……ルチアなりの慰めだと思っておきます」

「僥倖よ」

「では僥倖ついでに教えてください。私はどうすればよかったんでしょうか。どうすれば、私は彼を傷つけずに済んだのでしょう」

 私が問うと、ルチアは事もなげに答えました。

「簡単よ。何も言わずに口を閉じていること、余計なことに首を突っ込まずに身の程を弁えておくこと、線を踏み越えたと思った時にすぐ足を引っ込めること、―――そんなことができるほど、あなたは器用ではないけれど」

「……きっとそうなんでしょうね」

 鈍感な私も、そろそろ察しがついていました。

 いえ、察しがついていた、というのが正しい言い方になるのでしょうか。

 マルセルのあの悲痛な顔を見ても、私はまだ、どうして彼があんな顔をしたのか分からないままなのです。深い悲しみを宿したマルセルの瞳と、セシリエの責めるような眼差しだけが、私の心に棘のように刺さっているのです。

「まあ、不器用を嘆いていても仕方がないわ。物憂げな顔をすれば急に処世が上手になるわけでもないでしょう。それだったら、むしろ開き直ってしまったほうが現実的なんじゃないかしら」

「開き直る?」

「棚に上げる、とも言うわね。あなたみたいな人は、下手に物わかりのいい振りをしない方がかえってうまくいくものよ」

 そんな投げやりな、と私はルチアへ非難の目を向けましたが、彼女は全く堪えていないようでした。

 そしてやわら立ち上がり、部屋に一つだけ置かれた机に近づき、その上に置かれた紙片―――テオに渡されたメモ―――にさらさらと書きつけました。

 テオが書いた簡素な地図に何本か線が書き足され、ある地点に大きくバツ印が打ってあります。

「なんにせよ、明日早くにここを発つわ。それまでには、あなた自身が納得できるよう決着をつけておくことね」


     *


 街中を流れる川、その水門の近くに、周辺よりもわずかに盛り上がった丘がありました。

 そこには街中には珍しく自然の雰囲気を残した小さな林があり、青々と茂った木の葉に囲まれた小さな空間だけは、街の喧騒からわずかばかり解き放たれているかのようでした。

「いい場所ですね」

 私が後ろから声を掛けると、マルセルはびくっと体を震わせました。

 彼は陽だまりにうずくまるように座って、どこへともない視線を泳がせていました。その横顔はまるで空想の中に遊ぶ少年のようで、私はほんのしばらく、声を掛けるのを躊躇っていました。

「エリーゼさん」

「ルチアがきっとここにいると教えてくれました。……隣に座らせていただいてもよろしいですか」

 あまり歓迎はされていないようでしたが、マルセルは無言でうなずいて、わずかに身体を横にずらしました。

「……何の音もしなかったので、びっくりしました」

 絞り出すように発したその嫌味が、きっと彼の精一杯の抵抗だったのでしょう。どこまでも実直な少年です。

「森育ちでして。むしろこういうところを歩く方が得意なんです」

「……本当に、旅人なんですね」

「本当に?」

 私が彼の空けてくれた場所に座ると、マルセルとは足の端が触れ合ってしまいそうなくらいの位置でした。彼に比べて私の身体が大きすぎたようです。

「いえ、すみません。……僕、この街から出たことがないので」

「そうなんですか」

「それより、先ほどはすみません。お話の途中で水を差してしまって、ご心配までおかけしてしまったみたいです」

「いえ、そんなことは。……謝らなくてはいけないのは、私の方でしょうし」

 マルセルは、手元無沙汰そうに足元の草を指先でちぎりました。

「そんなことを仰らないでください。僕ももう、引きずってばかりはいられないと思っているんです。何とか乗り越えたつもりでしたけれど、……だめですね。やっぱり弱くて」

 彼が自嘲気味にそう言うのを、私は他人事だとは思えませんでした。

「もう母さんと二人の生活にも慣れてきてはいるんですが、店に出ると、ふとした時に思い出してしまうんです。窯の前の父さんを見ていたのがまるで昨日のように。でもいいこともあるんですよ。父さんのことを思い出すたびに、もっと頑張らないとって思えるんです。もっとちゃんとして、店を守って……」

 最後の方は、ほとんど嗚咽のようでした。

 どうして彼が私にそこまで話してくれたのかは分かりません。あるいは、ずっと誰かに話したかったのでしょうか。

「……お父様は、あなたに大切なものを残してくださったんですね」

 私が言うと、マルセルは黙ったまま、私の言葉に耳を傾けていました。

「私の故郷は、シェヴルという森の中に……あったんです。森の中の小さな村は、退屈で、何も起こらなくて、だけど穏やかな時間が流れていて、私はそんな村が好きだったのでしょう。父様と母様と弟がいる、あの森の中の家が。もっとも、あの頃はそう思ったことはなかったですけれど」

 こうして口に出すと、喉につかえていたものがとれるような感覚に襲われました。

 しかしそこから先を話そうとしたとき、私は不意に言葉が詰まってしまったのでした。この先を言葉にしてしまえば、もうどこにも逃げ道はないような気がしたのです。

「ご家族のこと、好きだったんですね」

 マルセルはただそれだけ言いました。

 その一言は、まるで私にそれ以上何も言わなくていいと諭すようです。

「そう……だったんだと思います」

 そしてマルセルは、大きく息を吐いてから、勢いよく立ち上がりました。

 背を伸ばして全身に日の光を浴びた彼の顔は、ここに来た時に見た夢想する少年の横顔ではなく、迷いを振り払った清々しさに輝いて見えました。

「すみません。わざわざこんなところまで来ていただいて。お世話をおかけしてばかりです」

「いえ、こちらこそ余計なお世話だったでしょうか」

「とんでもない」

 マルセルは私に手を差し伸べました。

 その手を借りて立ち上がると、涼やかな川風が顔の辺りを抜けていくのを感じました。

「僕は戻ります。きっとセシリエにも心配をかけてしまったでしょう」

「ではご一緒に」

 心もち軽くなった足取りで歩き出す彼は、一回り大きくなったように見えました。

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