第22話 小石
どうやら、人の住む町は、私が思っていた以上に勝手が違うようです。
私の顔色を窺うようにしながら、セシリエがひどく申し訳なさそうに、
「す、すみません」
と言いました。
「? 何がです」
「いえ、その、……お疲れのところをこんなに連れ回してしまって」
「ああ、そんなことですか……」
「すみません。すぐに父の仕事場へ案内しますね」
「私は大丈夫ですから、気にしないでください」
そう言いつつ、私の身体には確かにかなり疲労が溜まってきていました。
森に住んでいたころは、森の中を一日中駆けまわっても、家の中をすみずみまで掃除していても、少しも疲れを感じることなどなかったのに、今日はまだ日も高いというのに気疲れしきっていました。
「……すみません」
「セシリエさんが気にすることじゃありませんよ。何でもかんでも背負い込んでいては潰れてしまいますよ」
「いえ、そうじゃないんです」
彼女がそう言った瞬間、私が全方位に張り詰めた神経の網に、一個の異物が引っかかりました。
こんな神経を張っているから疲れてしまうのです。しかしその甲斐はあったということでしょう。放物線を描いて飛翔してきたこぶし大ほどの物体は、そのまま放っておけばセシリエの頭を直撃していました。
「これは……石?」
とっさに右手でつかんだそれを見ると、どこの道端にでも落ちていそうな、変哲のない小石でした。
いえ、ひとりでに飛ぶ小石であればむしろ興味深いくらいですが、どうやらそうではないようです。
「エリーゼさん。行きましょう」
セシリエが私の服の袖を引っ張りました。
「しかし」
「振り返らないで。……本当に、すみません」
辛うじて聞こえるほどのセシリエの声は、か細く頼りなさげでしたが、震えてはいませんでした。
振り返るなという彼女の言葉に背いてこっそりと石の飛んできた方向を窺うと、数名の子供が集まってこそこそと言い合っているのが見えました。
「セシリエさん。追ってきてはいませんよ」
やがて逃げるように小走りになったセシリエの後を追って、私も町の通りを外れて人通りの少ない場所に出ました。
「……すみません」
彼女はようやく私の袖を離し、消え入りそうな声で言いました。
小さな身体をさらに縮こめて、触れれば壊れてしまうのではないかという気さえしました。
いくら人里の事情に疎い私でも、誰かに向かって石を投げることがひどく良からぬことだということは分かります。ましてや、誰もそれを咎めることなく、誰も手を差し伸べることなく、いたいけな少女がこんな風に一人で声もなく泣かねばならないなど。
「何です。あれは。あんなのってないでしょう」
私ははじめて、義憤というものを知りました。
「い、いいんです。いつものことですから」
「いつものって。なおのこと悪いです」
「いいんです」
セシリエは私の言葉に耳を貸すつもりはないようでした。
彼女がいいと言うのならいいのでしょうか。あるいはここで手を引くという選択肢もあったかもしれません。しかし、私はもう自分の胸の内に沸き起こる感情をどうにもできませんでした。
「分かりました。でも訳くらい聞かせてくれてもいいでしょう。それとも、この町には人に石を投げつけるという挨拶でもあるんですか」
「……はい、そうですね」
セシリエは顔を上げて、私にある方向を指し示しました。
そちらは町を外れていく方向で、その向こうにはシェヴルの森の縁が見えていました。
「お父さんの工房がすぐそこなので、歩きながら話しませんか」
*
「職業に貴賎なし、って言うじゃないですか」
ややの沈黙ののちに、セシリエはぽつりと呟くように始めました。
「どんな仕事でも必要とされてるからあるんだって、誰かがやらなきゃ回っていかないんだって、そういう意味だって分かっているんですけど。でもそれってやっぱり嘘なんです。いくら聞こえをよくしたって、この世にはいい仕事と、……悪い仕事があって」
「……そうなんですか」
「はい。そうです。そして私たちの仕事は……お父さんのしている仕事は、どちらかと言うと、たぶん……悪い仕事なんだと思います」
セシリエはささやかな抵抗のように言い淀みました。努めて平静を装った表情にも、苦渋がにじんでいるように見えました。
「それって、聞いてもいいんでしょうか」
「か、隠しているつもりはないですよ。これから工房へご案内するところですし」
「そうでした」
「父の仕事は……炭焼きです。シェヴルの森から木を伐り出してきて、窯で焼いて炭にする、そういうお仕事です」
彼女が思い切ったように言った仕事の内容は、私が身構えたのが拍子抜けに思えるくらい、ごく普通にありふれた仕事のように思えました。
「それだけ? 炭焼きくらい、私の住んでいた村でもしている家がありましたけれど」
「それは、……こういう言い方をすると気分を害されるかもしれませんが、森に住んでいる人にとっては、大したことではないのかもしれません。しかし町に住んでいる人にとっては……」
「……確かに。すみません」
「そ、そんな謝ることは」
知らず知らずのうちに、森と同じ感覚でいた自分に気が付いて、私は何だか恥ずかしいような気持ちになりました。
「それにしても、炭焼きはどうしても必要な仕事ですし、『悪い仕事』とまで言われるいわれはないと思いますけれど、この町では違うんですか?」
「……どうしてなんでしょうね。私たちも説明できないんです。ただ、私たちの町では、森に入ってする仕事はそれだけで卑しいとされることが多いんです」
「ははあ……」
「はっ、すみません。エリーゼさんがそうだと言ったわけではなくて」
「大丈夫、分かってますよ。しかしなるほど、それであんな」
納得はできなくとも、訳が分かれば理不尽さも多少は薄れるものです。少なくともこの時点で、私の胸の内の憤りの奔流は制御できないものではなくなっていました。
それでも、当の本人たるセシリエにとってはそうもいかないでしょう。
「ああいうことは、いつもなんですか?」
「いつもというわけではないですが、実際に手を出してくるような子は限られてますから。結局は、あの子たちに見つかるかどうか、あの子たちが暇かどうか……ですかね」
「……どうにかしたいとは、思いませんか」
「……思わないわけではないですよ。それはもう」
セシリエの言葉には、もはや怒りは込められていませんでした。残酷な年月が怒りを根こそぎ削ぎ落としてしまって、その代わりに諦念と絶望、そしてほんの少しの淡い希望が、かえって悲しみを深くしていました。
どうにかしてあげたい、と思った私は間違っていたでしょうか。
こんな状況を知ってそう思わない方がおかしいのではないでしょうか。たとえそれが自分の手に余ると知っていても、あるいは状況がより悪化するかもしれないと思っても、ただ何もせずに立ち去ることができる人に、心があるでしょうか。
そんな私の心を見透かしたように、セシリエは無理をした笑みで、
「私のことは大丈夫ですから。それより、お父さんの工房が見えてきましたよ」
と、森の脇にひっそりと隠れるように建っている小屋を指さしました。
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