第21話 セントペールの町
彼女がもうすぐそこまで来ていることは、足音ですでに分かっていました。
セシリエの足音は、軽そうな体重の割にこつこつとよく響いて聞こえます。
年月にさらされた質素な板張りの床は、いたるところで軋み声をあげて、なおのこと明らかに居場所を教えていました。
「……………」
私の感覚がおかしくなっていなければ、彼女はすでにドアの前にいるはずです。しかしノックの音はせず、しんと黙ったままでした。
理由は分かります。
私とて、自分から動こうと思えばできたのです。ここから外のセシリエに一言「どうぞ」と言えば―――あるいは気づかぬふりを装ってドアを開けてみれば、簡単に彼女を部屋に招き入れることができたでしょう。
私がそうしない理由は、きっと彼女と同じなのです。
今ほど、ルチアの存在を求めたことはありません。彼女が今ここにいれば、きっと私よりも早くセシリエの接近を察知し、雨水が樋を流れるようにごく自然に、彼女を引き入れたことでしょう。
しかしその日は、ルチアは朝早いうちに出かけてしまって、部屋には私しかいないのでした。
「……………あー……」
この膠着状況を何とかせねばならないと思い、しかしどうすればよいのかと頭をひねっていたら、意図せずに謎の声が出てしまいました。
「……!」
薄い木の板の向こうで、私の声に反応するような気配がありました。
とはいえ「あー」の一言では流石に出方が定まらないようで、どうしたものかと動揺している様子でした。それはそうでしょう。私も同じ気持ちでした。
しかし今どちらかが一歩踏み出さねばならないとしたら、それは私の方でしょう。
「……そろそろ、セシリエさんが来る頃でしょうか」
ほとんど破れかぶれになって私がそう言うと、やや間をおいて、意を決したようなノックが答えました。
「し、失礼します」
「おはようございます。ちょうど来る頃かと思っていたところでした」
「お、おはようございます」
セシリエは緊張のあまりに紅潮した頬を横髪で隠し、私からふいと視線を外しました。
それが彼女にとって何の他意もない反応なのだとしても、やはりこうあからさまに目を逸らされると、ばつが悪いものです。一応、せめて見苦しくないようにと今朝は彼女が来る前に顔を洗って髪を梳いておいたのですが、どうやら無駄だったようです。
「え、ええと」
セシリエは片肩にかけた鞄を下ろす気配もなく、何か言いたげに私の様子を窺っていました。
「今日はセシリエさんのお父様にご挨拶する予定でしたね。それじゃあ、よろしくお願いします」
「は、はい!」
私は精一杯の柔和な笑みを浮かべました。
*
その日の空模様は底の抜けたような快晴、風は穏やかな南向き、昨夜まで降っていた雨が土と空気を潤していて、日向でまどろむには絶好の日和でした。
「あの、先に町の用事を済ませてもいいでしょうか」
「もちろんです」
「す、すみません」
セシリエは相変わらず自信なさげな態度で、申し訳なさそうに頭を下げました。
「いえ。余計な手間をかけさせているのは私の方なんですから。お手伝いできることがあれば何でも言ってください」
「そ、そんな。……ありがとうございます」
こんな気持ちのいい日には、私はよく窓辺に座って森のざわめきに耳を澄ましたものです。母様の調子がいい日には、母様と一緒にお茶を飲みながら他愛のない話をして―――時には父様がさらにその隣にいることもありました。
「……………エリーゼさん?」
セシリエが怪訝そうに私を覗き込んでいました。
急いで顔面に笑みを張り付け、心を打ちを悟られぬよう、できる限り柔らかな声で答えます。
「はい。どうかしましたか?」
「いえ、なんだか具合が悪そうに見えたので……」
「ご心配ありがとうございます。少し疲れが残っていたのかもしれませんね。でも大丈夫です」
「そう、ならいいんですけど……」
「それより、この町にはずいぶんたくさんの人が住んでいるんですね。私、驚いてしまいました」
私は首を振るように辺りを見回しながら言います。
セシリエの家を出てまだ幾ばくも歩かないうちに、通りにはいくつもの人影が現れていました。それに道沿いにはさほどの間も空けずに家々が立ち並び、そのどれもに人が住んでいる気配がありました。
「そ、そうでしょうか。……そうですね、もうすぐ市が立つので、いつもよりは人が多いかもしれません」
「市?」
人が聞けば笑うでしょうか。私は市場というものをこの時初めて知ったのです。
「市と言っても、トロエスタの大市なんかと比べたら全然ささやかなものですけれど。でも、トロエスタ帰りの商人さんとかもいますし、この近辺からはけっこう人が集まるんです」
「へえー……」
私はセシリエが何を言っているのか、よく分かりませんでした。
先を歩くセシリエの後をついて行きます―――そのつもりではいたのですが、私の方が歩幅が大きいので、自然と横に並んで歩く形になっていました―――そのうちに、私は妙な感覚がついて回るのに気が付きました。
「えと、エリーゼさんは、シェヴルの森の中に住んでいらっしゃるんでしたっけ」
セシリエが口を開きます。
私が落ち着かない様子であったのを察したのであれば、彼女は思った以上によく気が付く人のようです。
「ええ。住んでいた、というのが正確ですけれど」
「あの森に人が住んでいるなんて、初めて知りました。ルチアさんが急に連れてきたときには本当にびっくりしちゃって」
「それならお互い様ですね。森の外にはこんなに立派な町があるなんて、私は全然知りませんでしたから。私たちはあの森に名前すら付けていませんでしたし」
思えば、父様たちが定期的に出かけていた『町』というのは、このセントペールの町のことだったのでしょう。
今まで知らなかった、のではなく、今まで一度も考えたことがなかった、と言うべきです。私は、あの村の外があることは知っていても、それについてちゃんと考えたことがなかったのでした。
「だから、何だか不思議な気持ちです。こんな風にお話しする日が来るなんて」
「え、あの。はい」
私が横にいるセシリエに微笑みかけると、彼女は顔を伏せました。
もしかして何か変なことを言ってしまったかと考えているうちに、セシリエは一つの家の前で立ち止まりました。
「あっあの、ここなんですけど、……少し待っていてもらってもいいでしょうか」
私には中に入ってきてほしくないという意味のようです。
彼女がそう言うのであれば、当然私はそうする他ないでしょう。むしろ一緒に入って何かをするよう頼まれる方が困ってしまうでしょう。……やや好奇心が疼きはしますが。
「はい。ではここで」
「す、すみません。すぐに戻りますから」
セシリエが中に入って行くと、私は息を吐いて、戸口の横の壁に寄りかかりました。
初めて会う人と会話をするなんて、いつぶりでしょうか。
村にいた時は、物心ついてしばらくした頃にはもう顔見知りでない人はいなくなり、新しく人が入ってくることもなかったので、本当に思い出せないくらい久しぶりのことです。
そんな慣れないことをしている割には、頑張っていると思います。
父様が今の私を見たら何と言うでしょうか。……全く想像ができません。それどころか、父様がこの町で買い物をしている姿さえ、私には思い描けないのでした。
「……………?」
また、妙な感覚がしました。
セシリエもまだ戻ってこないでしょう。違和感の元をたどろうとゆっくり周囲に注意を払うと、存外にすぐに答えが見つかりました。
視線です。
改めて考えるとどうしてこんなものに気が付かなかったのか不思議なほどです。道行く人や家の窓から覗く人が、私に向けて無遠慮な視線を投げつけてくるのです。それがあまりにあからさますぎて、逆に意識から漏れてしまったようでした。
どういう視線なのかを探るためにこちらから視線を返すと、その瞬間に向こうはぱっと目を逸らしました。
大方、余所者の私を珍しがる好奇の目と言ったところでしょうか。いずれにせよ、敵意はなさそうです。
「すみません、お待たせしました」
思っていたよりもかなり早く、セシリエが戻ってきました。
「早かったですね。別に急がなくても構いませんよ」
「い、いえ。すぐに済む用事だったので」
そう言いつつ、かなり急いで出てきたようで、セシリエはやや息を切らして、手に持った何かを慌てて鞄に突っ込みました。
何かの布のように見えましたが、彼女が何も言わないならばあえて聞く必要はないでしょう。
「私がいない間、何もありませんでしたか?」
セシリエは意味深な聞き方をしました。
「ありませんでしたが……。何か起こるかもしれないんですか?」
「そ、そういう訳ではないんですけど……。いえ、そういう訳ではあるんですが……」
何やら訳ありげな様子のセシリエに、私はふと先ほどのことを行ってみることを思いつきました。
「……特別何かあったというわけではありませんが、私はずいぶん浮いているみたいですね。やけにこう、見られているような」
「ああ、それは……。皆さん気になるんだと思います」
「やはり余所者は目立ちますか」
「それもあるとは思いますけど……」
セシリエは私の方をちらちらと見ながら、何やら言い淀みました。
彼女が私に向けるその視線は、どうにも町の人々が私を見る視線と似ているような気がします。遠巻きに見つつも決して距離を詰めようとはしないような、森ではあまり感じない類の目です。
「と、とにかく行きましょう。もう一軒だけ寄らせてください」
そっぽを向いてしまったセシリエが何を言おうとしていたのか、気になりましたが、とりあえず黙ってついて行くことにしました。
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