第28話 疾風

「そろそろトロエスタだ。思ったより早く着けそうだな」

 引き締まった力強さからは想像もできない軽やかさで、馬はずんずんと進んでいきます。

「も、もうこんなに」

「おっとお嬢さん。できれば口は閉じておいた方がいい。舌を噛んだらいけない」

「は、はいぃ」

 セシリエは高揚と恐怖が半々といった表情でした。

 私とて同じです。馬の背上は決して安定感があるとは言えず、いつ振り落とされるか分からない怖さがあります。それでも、独特のリズミカルな動きや、いつもより高い視点、それに息をつく間もなく流れていく風景に、高揚している私も確かにいました。

「そちらの背の高いお嬢さんは平気そうだ。経験がないというのは、もしかして謙遜だったのかな」

「まさか。今もおっかなびっくりです」

「とてもそうは見えないな」

 そう言って彼はけらけらと笑いました。

 彼は私たちの乗っている馬の横を、リードを手に持ったまま走っていました。決して走れない速さと言うわけでもありませんが、このペースでこれだけの時間を走って息一つ切らす様子がないのは、ただ驚嘆するほかありません。

「セシリエさん、大丈夫ですか? よければ私に掴まっていてください」

「あ、ありがとうございます……」

 私はセシリエが落ちてしまわないよう、彼女の前に両腕を回します。その裾をセシリエが控えめに握りました。

 私などは万一落馬しても多少怪我するくらいで済むでしょうが、セシリエはそうはいかないでしょう。身体の頑丈さも違うでしょうし、セシリエにとって馬の背ははるかに高いはずです。

「その通り、しっかり掴まっているといい。それにしても、姉妹仲良しなのはよいことだ」

 彼は走ったまま、何気ない世間話のように話しかけてきました。

「俺にもひとり姉がいた。優しく穏やかな人で、いつも見守られているような気がしたものだ。生憎家を出たきりになってしまったが……今でも時々、あの暖かい視線を思い出すよ」

「……そうなんですか」

 どうやら彼は、私とセシリエを姉妹だと思っているようでした。

 訂正しようかと思いましたが、彼が思い出に浸っているようなので私はただ相槌を打ちました。

「家族というのは確かなようで、思いのほか儚いものだ。そして当たり前のようでいて、実はひどく得難いものなんだ。そしてきっと、自分で感じているよりもずっと大きな存在だ。だから、どうか君たちも今そばにいる家族を大切にしてほしい―――おっと、少し説教くさくなってしまったな」

 彼は物憂げな空気を振り払うように言いました。

 その表情に落ちた影を見れば、彼の言葉がただのきれいな建前でないことはすぐに分かります。そしてきっと、それと同じ影が私の顔の上にもあったのでしょう。彼は喋りすぎたことを恥ずかしそうに顔を逸らしました。

「いえ……………」

 私は何か言おうとして、言葉に詰まりました。

 何を言おうとしていたのか、自分でも分かりません。ただ当たり障りのないことでも言えばよいのに、どうしてか、軽率なことは言えなくなってしまったのです。

「あの、えっと」

 そんな私の沈黙を察してか、セシリエが代わりに口を開きました。

「私たち、別に姉妹とかじゃ、ないんです」

「そうだったのか。いや、言われてみれば確かに姉妹にしては年が離れすぎているな。これは失礼した。何かお詫びをしなければならないが……」

「いえ、別に謝るようなことじゃ」

 セシリエが満更でもなさそうに見えたのは、私の曇った目のせいでしょうか。

「そういう訳には……。おや、もう着いてしまったようだ」

 気づくと、トロエスタの町はもう目の前まで迫っていました。

 年季の入った石積みの市壁は、長年の雨風に鍛えられた堂々たる威容でもって私たちを迎え、堀を渡す跳ね橋の向こうにはことさらに重厚な門が待ち受けています。そのさらに向こうには、屋根が幾重にも重なった町並みが覗いていました。

 彼は跳ね橋の手前で馬の脚を止め、私たちを下ろしました。

「どうだった、初めての馬の乗り心地は?」

「すごかったです。こう、ガタガタ、ビューって」

「そうかそうか、楽しんでもらえたなら何よりだ。お前もご苦労だったな、グライセル」

 セシリエは興奮冷めやらぬ様子で、堰を切ったように喋りました。

 やはり彼女も年相応に無邪気なところがあるのだと、私は何だかほほえましい気持ちでした。

 城門には門番の類はおらず、開け放された門をくぐるだけで中に入ることができました。

「では無事に辿り着けたことだし、俺はこの辺りで失礼しようと思うが……。時に君たちは、今晩の宿の当てはあるだろうか」

「それが実は……」

 彼が去り際に言ったので、私は正直なことを打ち明けました。

「やはりか。何となくそんな気がしたんだ」

「お恥ずかしいばかりです」

「なに、何事も初めてはそういうものだ。今は何よりその勢いと情熱を大切にしたまえ。若さとは何物にも代えがたいものだ」

 彼は紙切れに手早く走り書きをして、私に差し出しました。

「そこに書いてある宿屋には顔が利く。俺からの紹介だと言えば、多少の便宜を図ってもらえるだろう」

「そんな、そこまでお世話になるわけには」

「逆さ。ここまで世話を焼いたんだ、最後まで面倒を見させてもらわなきゃ寝覚めが悪い」

「でも」

「では先ほどの非礼の詫びということにしよう。それでも気が引けるようならその紙は読まずに破り捨ててもらっても構わない。できれば、俺があの角を曲がりきった後で」

 そう言って、彼は私に紙切れを握らせ、馬を連れて去って行ってしまいました。

 騒々しく、しかし華やかな花嵐のような男が去り、二人残されると、にわかに妙な寂しさを感じました。

「……結局、名前を聞き忘れましたね」

「そういえば。……いえ」

 私はふと手元の紙切れに目を落としました。

 二つに折りたたまれた紙には、簡単な地図と件の宿屋を指し示す矢印、そして恐らくは彼のものであろうと思われる名前が、存外にきれいな文字で書かれていました。

「……テオ」


 私の前に突如現れ、そして唐突に去っていった男の名を、私は頭の片隅にしっかりと留めました。

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