第27話 森辺の街道

 その日は強い日差しが照りつけ、世界が夏を思い出したかのような暑い日でした。


「……やっぱり私が背負いましょうか」

 そんな暑さもあってか、あるいはただ単に道のりの長さのせいか、セシリエは既にかなり疲労困憊の体でした。

「いえ。大丈夫、です」

「ではせめて荷物だけでも」

「……ではこっちだけ、お願いします」

 半ば意地になっていたセシリエも、とうとう折れて肩に回したバッグを私に渡しました。

 隣町へ一緒に出掛けることにしたのはいいものの、ロバは仕事で出払っていて、タイミングよく相乗りできる馬車の類も見つからなかったため、私たちはやむなく徒歩で向かうことにしたのでした。

 森を回り込むように走る街道は、石と盛り土でよく整備されていて、大きな起伏もなく、歩くのに不便はありません。

 しかしいくら道があっても、セシリエの細い脚には長距離の歩きは応えるようです。

「あの木のところまで行ったら少し休憩しませんか」

「まだまだ平気ですよ。ほら」

 元気があることを示そうとセシリエが振った腕は、その弱弱しさで、逆に身体の限界が近いことを強調するばかりでした。

「すみません。私の方が疲れてきてしまったので、少しだけ休ませてもらってもよろしいですか」

「そ、そうでしたか。……こちらこそすみません、気が利かなくて」

「いえ、その気持ちだけで。それじゃああとちょっと頑張りましょうか」

 彼女のために、これくらいの小さな嘘は許されていいはずです。

 実のところ、私は疲れなど少しも感じていないどころか、手足の感覚がどんどん明瞭になって、調子が上がってきたとすら感じているほどでした。セシリエが首を縦に振りさえすれば、私はすぐにでも彼女を背に担いで残りの道行きを踏破したでしょう。

 街道の脇にある、大きく枝を広げたカエデの木の根元に、私たちはようやっと腰を下ろしました。

「ふう。……はあ」

 セシリエはすでに満身創痍といった様子です。

「思ったよりも遠いですね。あとどれくらいあるんでしょう」

「どうでしょう……。トロエスタまでは、半日もあれば着くと、聞いていたんですが……」

「そこそこのペースで歩いてきましたし、であればもう近いかもしれませんね」

「……もしかしたら、お父さんがホラを吹いた可能性も……。ちょっとそういうとこ……ありますから……」

 水筒に入れた水を飲み干しながら、セシリエは珍しく恨み節をぼやきました。

 大きく弧を描くように湾曲した街道は遠くが見通せず、目的地が近いのかどうかも判然としません。そうでなくとも、見知らぬ土地を歩くのは案外神経を使うものです。

 ただ一つ幸いなのは、街道が一本道であることでしょう。

「しばらくここで休むのもアリですね。ちょうど木陰になってくれていますし」

「でも、こんなところで時間を取られては……」

「しばらく、ですよ。さすがに道程の半分は超えているでしょう。どちらにせよ今日で行って帰っては来られません。今日中に向こうに着ければいい、と考えましょう」

 セシリエはひとまずは頷きました。疲れて口を開くのが億劫になったのかもしれません。

 私は考えていました。

 まだ時は正午を回ったばかり、多少休憩を長めに取ってもトロエスタに辿り着くことはできるでしょう。問題はその後で、トロエスタの町で一夜を越さねばならないことがほぼ確実にもかかわらず、その寝床の当ては全くついていませんでした。私はともかく、セシリエには疲れを癒すことができる場所が必要です。

 多少の路銀も二人分の宿を取るにはあまりに心もとありません。かといってセシリエは決して自分一人で宿に泊まることを承知しないでしょう。そもそも手元の路銀をかき集めたとて一人分の宿代があるかもわからないのです。もしかすると、セシリエには身を寄せられる当てがあるかもしれませんでしたが、今のくたびれ果てたセシリエにあまり余計な心労をかけたくありませんでした。

「エリーゼさん? 座らないんですか?」

「え。あ、ああ。そうですね」

「あとどれくらいか分からなんですから、ちゃんと休まないとだめですよ。もっとこっちにどうぞ」

 セシリエは身体を寄せて私に座るように促しました。

 そこはうまく木の幹に背を預けられるようになっていて、確かに休むにはいい場所でした。

「……すみません」

 セシリエはぼそりと、囁くように言いました。

「平気だなんて言ってましたけど、私、本当はすっごく疲れてました。エリーゼさんが休もうって言ってくれなかったら、今頃倒れちゃっていたかもしれません」

「……何となく分かってました」

「やっぱりばれてましたか」

 セシリエは恥ずかしそうにはにかみました。

「自分で言い出した手前、あんまり泣き言言えないなって思ったら、つい。それで余計に心配かけてしまったら、元も子もないんですけどね」

 自然な豊かさを取り戻した表情からは、多少体力が回復してきていることが分かります。

 その笑顔を見れば、私の心もどこか晴れやかになるのでした。

「本当ですよ。あんまり無理しちゃだめですからね」

「はい。でも、やっぱりできるだけ早めに町に入っておきたいところではありますよね」

 どうやらセシリエも、私と同じようなことを考えていたようです。

 いえ、最初からセシリエはそのために、体力に見合わないハイペースで歩いていたのでしょう。私にとって自然な速さであっても歩幅の小さな彼女にとってはそうでない、というごく簡単な事実を、私は迂闊にも失念していました。

「まあ、なるようになるでしょう。いざとなれば私が背負いますし。それに……」

 私が密かに期待していたことを口にしようとしたとき、まさに期待していたものが近づいてくる音が聞こえてきました。

 リズミカルに石畳を叩く軽快で硬い音は、私たちの近くまで一気に近づいてきます。

「おや、こんなところにお嬢さんが二人とは珍しい。野草採り……というわけでもなさそうだ」

 街道を通りがかったのは、馬に乗った精悍な顔つきの男でした。

 街道の横で休憩していれば、商人なり旅人なりが通りがかる可能性があります。運よくその荷車にでも乗り込むことができれば、体力と時間の両方を節約できるでしょう。私が期待していたのはまさにそれでした。

 しかし今現れた男は、馬に直接騎乗していて、私たちが乗り込む余地はなさそうでした。

「セントペールからトロエスタに向かっているところなのですが、疲れてしまって休んでいるところなのです」

「セントペールから! 決して無理な距離ではないが、歩いて行くには遠すぎる距離だ。それもそんな旅向きでない格好では、さぞ大変だったろう」

 男は過剰なほどに物わかりよく、感情豊かに同情の念を表明しました。

 芝居がかっているところはありますが、虚言を吐いているようには見えません。馬も立派なものですし、身に着けている服の装飾も凝っていて、少なくともならず者の類ではなさそうです。

 厚意に付け込むようで気が引けましたが、彼からいくらか施しを引き出せるかもしれない、と私は考えました。

「それで、もし食べ物など……」

「よし。ならばこの馬に乗るといい。トロエスタまではまだ少々あるが、我が愛馬グライセルならば一息に駆け果てよう」

「えっ」

 私が物を言い終わらぬうちに、男は躊躇いなく乗馬を降り、私たちの目の前まで近寄りました。

 目の前にしてみると、ずいぶん体格のいい男です。私と比べて格段に背が高いというわけではありませんが、姿勢が良く存在感があって、何よりも確固たる自信に満ちています。

 栗色の毛をした馬は、主人の意向に従うと言わんばかりにただ黙ってこちらを見ていました。

「乗馬の心得などありません」

「心配するな、グライセルは普段は気性の穏やかなやつだ。俺もそばについている。蹴落とされるようなことはあるまいよ」

「あなたの足を奪うわけには」

「俺は横を並走しよう。何、たまには自分の足で走るのも鍛錬になってよい」

「しかし」

 あまりに急な申し出に私が引き気味でいると、男は依然全く動じずに言いました。

「無論、どうしてもと言うならば無理強いはすまい。しかし、連れのお嬢さんの方はそうでもないようだが」

「……はっ。すみません」

 見ると、セシリエは身を乗り出すようにして馬を凝視していました。

 これほど立派な馬はセントペールでは見かけませんでしたし、彼女が興味を隠し切れないのはやむを得ないことでしょう。

「……お礼などは出来そうもありませんが、それでも構わなければ」

「俺から申し出たことだ。これで礼金など取ろうものなら天罰が下るさ」

 私が渋々ながら了承すると、男はセシリエを持ち上げ、馬の背にちょこんと乗せました。彼が乗っていた時と比べると、あまりに小さく見えて、ある種の可笑しみさえありました。

「貴方もどうぞ」

 男は私に手を差し出し、馬に乗るよう促しました。

「いえ。私はこのままで」

「先ほど言った通り、無理強いはしないが……。貴方も走ってついて行くと?」

 男は私の体力を疑っているようでした。

「ご心配なく。体力には余裕がありますので」

「え、エリーゼさん、さっき疲れたって言っていませんでしたっけ。折角ですし、乗せていただいた方がいいのでは」

「……セシリエさん」

 先ほどの彼女のためについた些細な嘘が、裏目に出たようです。

 実は、私はまだ、この突如現れた親切すぎる男を信用していいものか、判断がつきかねていたのです。なので出来れば彼の馬に乗ることは避けたかったのですが、こうなると逃げ道はないようでした。

「……では、失礼して」

「どうぞ。乗り心地にはどうか目をつぶっていただきたい」

 私は馬の背にまたがり、セシリエの背後に、彼女を抱きかかえるように乗りました。

「それでは、トロエスタまで急ぎ向かうとしよう。……グライセル!」


 男が威勢よく声を上げると、馬は待っていたと言わんばかりに嘶き、力強く石の地面を蹴りました。

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