第34話 出立
洗いたてのシャツに腕を通し、腰にいくつものポケットが付いたベルトを回して、薄手の革の手袋のボタンを留めると、全身がきゅっと引き締まる感じがしました。
「もし。そろそろ準備できたかしら」
「だいたいは」
着替えの間わざわざ外へ出ていたルチアが、ちょうどいいタイミングで戻ってきました。
「よろしいよろしい。服の方はどう? 動きづらいとか、サイズが合わないとかがなければいいのだけど」
「怖いくらいにぴったりです。まだこの手袋なんかには違和感がありますが……」
「いずれ慣れるわよ。いえ、慣れてもらわなきゃ困るわ」
トロエスタでの一夜が明けた朝でした。
突然、ルチアは私のために衣服一式をよこしてきたのです。
それまで私の手持ちの服と言えば、村にいた頃の質素なものしかありませんでしたから、ついに見かねたということでしょうか。新しい衣服は小ぎれいな都会風で、初めはぎょっとしましたが、見た目よりは身体の動きを邪魔せず、何より丈夫そうでした。
「それじゃ、いいかしら?」
「はい」
靴紐を結び直して顔を上げると、灰色のクロークとつば広の帽子を身に着けたルチアの姿が見えました。
「それ確か……」
「あら、覚えていたのね。あなたはこういうのに無頓着かと思ったけれど」
彼女の装いは、私と初めて会った雨夜と同じです。はっきりと覚えていましたが、何となく恥ずかしくなって、誤魔化しました。
「いえ。……ところで、セシリエのことはどうなりましたか」
「今日午後のセントペール行きの馬車に話をつけてあるわ。荷車だから乗り心地はよくないでしょうけど、徒歩に比べれば遥かにましでしょうね」
「なんだか言い方に棘があるような」
「そんなつもりはなかったけれど。そう感じるのはあなた自身に後ろめたさがある証拠じゃないかしら?」
「……調子は悪くないみたいですね。それじゃ行きましょう」
私は逃げるように部屋を出ました。
玄関近くにいた宿屋の主人に短くお礼を言い、外へ出ると、外は昨日とはうって変わって厚い雲の立ち込めた曇天でした。今にも一雨降り出しそうな気配です。
そんな重苦しい空の下に、これまたどこか重苦しい顔をした少女が立っていました。
「……セシリエさん」
今まで見たことのない憂鬱な表情をした彼女は、最初の一言を見つけかねているようでした。
口を開いたかと思うと萎むように閉じ、不安げな眼差しと行き場を探すような指先が空を漂っていました。
彼女が何を言いたいのかはおおよそ分かりました。だから、私が言い淀む彼女に変わって口にしてしまってもよかったのです。そうしなかったのは、ただ私にその覚悟がなかったからに過ぎないでしょう。
「今まで、お世話になりました。セシリエさんもどうかお元気で」
私が突き放すように言うと、セシリエははっとして、それから目を伏せました。
「やっぱり、行ってしまうんですね」
「はい」
「もうこのまま? いったんセントペールに戻ってから出発しても」
「行き先は別方向だという話ですから。もうルチアが荷物の類をまとめてきてくれたそうですし」
「そう、ですか……」
私は、今すぐにこのいとけない少女を抱きしめたい気持ちに駆られました。
彼女を抱きしめて、また明日と言えたのならどれだけ楽になるでしょうか。彼女は永遠を信じていたのです。今日と同じ明日を無邪気に信じていたのです。
「セシリエさん」
「……………」
もし、後ろからルチアの足音が迫っていなければ、私はそこから一歩も動けなくなっていたかもしれません。
この世の終わりのように悲愴な顔をした彼女は、私自身でした。
「お別れの挨拶は済んだかしら?」
ルチアは遠慮の欠片もない言い方で言いました。
「ルチア」
「今まで何かと世話になったわ、セシリエ。マティスにもどうかよろしくと言っておいて」
「ルチア!」
私が堪えきれなくなって叫ぶと、ルチアは冷や水を浴びせるように冷淡に、
「じゃあどうするの? ここで一生を過ごす? それともセシリエに頼んでみるかしら? 故郷の町を捨てて私たちと一緒に来てくれって」
「……そういう話ではなく」
「そういう話よ。これはそういう話にしかならないの。そういう話にしようとしないから、さっきのように黙りこくることしかできなくなるのでしょう?」
まくし立てるように、しかし感情的ではない声音で言います。
彼女の言い分はおおよそ正しくて、言い方だけはひどく乱暴でしたが、それも私に発破をかけているのだということは分かりました。しかし、どんな良薬もそう容易には飲み下せない時があるでしょう。
なおも私が食い下がろうとするのを止めるように、セシリエが細く張り詰めた糸のような声を上げました。
「エリーゼさん。私、……あなたと一緒にいて楽しかった。温かくて、安心して、……こんなことを言ったら失礼かもしれないけれど……お母さんみたいだった。本当はもっと色んなことを一緒にしたかったけど、もっといろんな話をしたかったけど、……しかたありません。今日は、それだけ言いたかったんです」
息をするのも忘れて、絶え絶えになった言葉はそれでもはっきりと聞こえました。
「私はお父さんと……あと、マルセルのいる、この街を離れられないけど。でも、いつでもエリーゼさんのこと、想ってますから。だから……」
セシリエはそこで言葉を詰まらせました。
その先に何を言おうとしていたのかは分かりません。でも、彼女の気持ちは確かに受け取った気がしました。
「……はい、私もです。セシリエ」
私が跪いてセシリエの手を握ると、彼女もそっと握り返しました。
彼女の手のほのかな体温は、手を離しても、しばらく私の手のひらから消えそうにありませんでした。
「……まあ、今生の別れというわけでもなし、いつかまた会う日もあるでしょう」
熱にあてられたのか、ルチアはやや気恥ずかし気に口を挟みました。
「だから、こういう時には約束をするのよ。次に太陽と月が重なる日までにまた会おうって。旅立つのはあなたの方なんだから、あなたが会いに来なきゃね、エリー?」
「……なんか気持ち悪いくらい良いこと言いますね。調子でも悪いんですか?」
「あなたたちに合わせてあげたらその言いざま。いいわ、これからはあなたの期待通りでいかせてもらうから」
セシリエがふふ、と控えめに笑いました。
それにつられて私も笑い、ルチアがそれを見て微笑んでいました。
「……あの、すみません」
「あ、マルセル!」
私たちの様子を窺っていたかのように、マルセルが現れました。
走ってきたのでしょうか、仕事着のような白い服を着て、額には汗がにじんでいます。腕には紙包みがいくつか抱えられていました。
「すみません。店を開けてきているので、すぐに戻らないといけないんですが」
「ああ、こちらこそわざわざ」
「いえ。本当ならちゃんとお見送りしたかったんですけど。とりあえず、これを」
そう言って、マルセルは私たちに紙包みを渡しました。
触ってみるとかすかに温かく、香ばしい香りが昇ってきたので、中身はすぐに分かりました。
「今日の昼食にでもしてください」
「ありがとうございます。大切に食べさせてもらいますね」
「昨日はお世話になりましたし、セシリエも懐いているみたいですから。どうか僕からも、よろしくお願いいたします」
そう言ってマルセルが深々と頭を下げると、セシリエは恥ずかしそうに「やめてよお」と顔を伏せました。
「それじゃ、そろそろ本当に行きましょうか。いいかしら?」
「はい、ルチア。……それでは」
ルチアが痺れを切らしたように言い、私は立ち上がって鞄を背負いました。セシリエとマルセルが手を振ってくれて、私はそれに手を振り返しました。
背を向ければもう振り返ることはないでしょう。振り返ってはいけないのです。
その前に、せめて最後の一言を言いたくて、私は二人にだけ聞こえるように囁きました。
「また、太陽と月が重なる日に」
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