第40話 死体

「どれくらい歩いて来たんでしょうか」

 私は呟きました。

 小高い丘の上から遠くにトロエスタの城門を見はらしたのはもう何日も前。それからも一つくらい丘を越えました。それなりに遠くまで来たのではないでしょうか。

「あら、疲れたかしら?」

「そういうわけではなくて。こんなに長い距離を移動したことがないので、ただ気になっただけです」

 最早どこを見渡しても、見慣れた森の木々の影さえも認めることはできません。これほど遠くに来るのだと、かつての私に言っても信じないに違いありません。

 今歩いている土地にも深い茂みや鬱蒼とした木立はありますが、やはりあの森とはどこか違っていました。葉擦れの音は余所余所しく、耳元を飛び回る虫もどこか他人行儀な感じがしました。

「そうねえ、結構来たし、そろそろ目的地も近いかしら。少し周囲を警戒しておいたほうが良さそうね」

 ルチアは言葉とは裏腹に全く緊張感のない調子で言いました。

「警戒?」

「ありそうなところで言うと山賊や野生生物の類ね。とはいえ、この辺りは人通りも多くないから、ありそうじゃないものもあるわ。ちょうどあれとか」

 そう言ってルチアが指し示したものが何なのか、私にはすぐには分かりませんでした。

 それもそのはず、私の目は―――特に森の木々の間では―――生きて動くものを目ざとく見つけるようになっているのです。もしほんのわずかな生動の予兆でもあれば、私の目は決して見逃しはしなかったでしょう。

 ルチアが指したは、最早生きても、動いてもいませんでした。

「……………ッ!」

 少し離れたところにある、木の枝に吊られた、人の身体。

 全身を弛緩させて首元の一点でぶら下がるそれを見るや、私は気付けば走り出していました。

 何のためにかは分かりません。きっと私にできることは多くないでしょう。あるいは、ルチアのように遠巻きに見やるだけで通り過ぎてやるのが最善の手段だったかもしれません。そうしなかったのは、ただ居ても立ってもいられなかったからというだけです。

 しかし近寄ってみたその身体は、まだわずかに揺れていて、触ってみると確かな体温がありました。

「ルチア! まだ生きてます!」

「う、……ん……」

 私が身体を抱えて枝のロープを切ると、その人は苦しげに呻きました。

 見ると、まだ年端もいかない子供のようです。

「ふうん、タイミングが良かったのかしらね」

 ルチアは悠然と歩いてきて、事もなげにそう言い捨てました。

「何を悠長に。ルチア、目を覚ましません。どうすればいいですか」

「あなたこそちょっと動揺しすぎよ。深呼吸をしてみなさい。ほら、すー、はー」

 一人の人間が生きるか死ぬかの瀬戸際にいるときに、動揺しすぎるなどということがあるでしょうか。

 私は文句の一つも言おうと顔を上げると、その子が首を吊っていた周囲に、見慣れない物が散乱しているのに気が付きました。

「ぅうん……、んにゃ。……あれ」

 ちょうどその時、その子も目を覚ましました。

「あなたは……天使?」

「え?」

 その子は惚けた瞳で私を見ると、うわ言のように言います。

「うわあ、本当にいたんだ、天使……ってことは、今度こそ成功……!」

 そしてすぐに覚醒して、勢いよく私の腕の中で身体を起こしました。

「では、ないみたいよ」

 その濁りのない瞳が、冷淡に見下ろすルチアの瞳とぶつかったようです。

「……二人目の天使?」

「残念ながら。ここはまだ現世で、あなたはその無闇に背の高い女に助けられてしまったというわけ」

「無闇にって……」

 その子は驚いたように首を回し、辺りが首を吊った時のままの林であることを見ると、落胆を隠しきれない声で言います。

「そっか。今度のはうまく行くと思ったんだけどなあ………。まあ、仕方ないか!」

「うまく行く……?」

 私は少年の意気揚々さにたじろぎました。

 森の奥で人知れずひっそりと首を吊ろうとした少年(あるいは少女)と、いま目の前で朗らかに微笑む子供とが、私の目にはどうしても重なって見えなかったのです。

「何がなんだかさっぱりだけれど、邪魔してしまったのなら申し訳ないわね。さ、早く行きましょう、エリー」

「ま、待ってください、ルチア」

「どうかした?」

「どうしたもこうしたもないでしょう。こんな状態でこの子を放置して行くつもりですか」

「人聞きが悪いわね。その子だって一人でここまで来たのでしょう? だったら一人で帰ることもできるはず。違う?」

「……そうかもしれませんけど。そういう話ではないことくらい、分かりませんか」

 私が視線でルチアを非難すると、彼女はこれ見よがしなため息を吐きました。

「分かっていないのはあなたの方よ、エリー。セントペールで何があったのかは知らないけれど、何でもかんでも首を突っ込んで、痛い目を見ることになるのはあなたの方かもしれない。あなたはもう少し慎重になるべきよ」

「我が身かわいさに目の前で起こっている悲劇に目を瞑るのが、ルチアの『慎重さ』なんですね。随分立派な信条を持っているみたいじゃないですか」

 私がわざと嫌味っぽく言うと、ルチアはわずかに顔を顰めました。

 認めたくはないですが、こと口論に関してはルチアに幾日もの長があります。普段なら私が言葉の限りに挑発したところで、すんと取り澄ました顔の眉さえ動かさないのに、今はなぜかできないようでした。

「……ねえ、もしかして」

 緊張を極めた空気を、子供のあどけない声が簡単に引き裂きました。

「二人はぼくのことで喧嘩しているの?」

 その声には悲しみも不安も宿っておらず、ただ疑問を口にしただけといった風の無邪気さだけがありました。

「! ち、違うよ」

「いいえ、そうよ」

「ルチア!」

「こんな子供に無為で空虚な嘘を吐くのがあなたのなのかしら?」

「ぐっ……」

 私が返答に窮したのを嘲るように見てから、ルチアはその子の方に向き直って語りかけました。

「いい、聞いて。私は、あなたと私たちはこのまま別れるのがいいと思う。でもエリーはそうは思っていない。話は平行線をたどっていて、決着がつきそうにないの。だから、あなたがどうしたいか決めていいわ」

「ルチ……」

「もしあなたが私たちと一緒に来ると言えば、私はもうそれ以上何も言わない。もしあなたがサヨナラと言えば、エリーにはこれ以上何も言わせない。さあ、決めて。今すぐに」

 彼女は、いかなる異論も認めないという気迫で言い切りました。

 そして言い方はともかく、それが最も簡単で穏当な解決手段でした。私とて、本人の意思を無視してまでどうこうしようとは思っていないのです。

 急に決断を迫られた当人は、ルチアの得も言われぬ威圧感を一身に受けて、しかし少しも怯んだ様子もなく、しばし思案気な顔をした後に、


「じゃあ、面白そうだし、ついて行こうかな」

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