第38話 渡し舟

 水をかき混ぜる湿った音と、ぼろくなった木の軋む音がリズミカルに響いていました。

 私がオールを大きく回すたびに、凪いだ湖面に波紋が広がっていき、やがて遥かな水平線と重なって消えていきます。私の手のひらが重い手応えを押し返してオールを漕ぎきると、ささやかなご褒美のように首元をそよ風が吹き抜けました。

「……ルチア」

「何かしら」

「……私の言いたいこと、分かりませんか」

 私たちの乗るボートは、シオン宮から城下町へ向けて湖を横切っているところです。

 湖を迂回するルートも一応はありましたが、あまり整備されていない上にかなり遠回りになるということでした。それでこちらのルートを選んだのですが、ボートを漕ぐのは想像よりもずっと辛くて、私はルチアに目で助けを求めました。

「分かるわよ。そんな顔をしていれば誰だって分かるでしょうね」

 ルチアは涼しい顔をして、ただ私が玉の汗をかいているのを眺めていました。

 私はそんなに満身創痍な顔をしているでしょうか。とはいえ既に私は表情を取り繕う余裕も残っていないので、否定しようはありません。

「だったら」

「私はあなたの考えを勝手に想像しただけよ。伝えたい思いがあるのなら、自分の口で言わなくてはね?」

 ルチアは私から頭を下げさせたいようでした。

 確かに私がものを頼む側である以上、彼女の言う通りにするのが道理なのですが、何となく腑に落ちないところはあります。

「……………漕ぎ手を代わってくれませんか。お願いします」

「構わないわよ」

「では席を……うわっ」

 文句を呑み込んで頼んだ私が立ち上がろうとすると、今まで静かに浮かんでいたボートがひとりでに滑り出しました。

 先ほどまでは蜂蜜かのように重く粘りついているように思われた水面は、今や空気を溶かし込んだようなさらさらの液体になり、その上をボートが音もなく軽快に進んでいきます。

 オールは最早何の用もなさず、ただ流れるままの水に細い波を作っていました。

「どうしたの? 急に立ち上がると危ないわよ」

「……これはルチアが?」

「ええ。生憎私はあなたと違って力仕事はあまり得手でないから。それに、わざわざ手漕ぎなんて面倒なことをしなくても、こうした方が手っ取り早いでしょう」

 ルチアは平然と言ってのけました。

 再び座ると、ボートはかつてない速度で、しかし誰の手を煩わせることもなく動いていました。気持ちいい風が吹きすぎてゆきます。

「いったい私の努力は何のために……」

 私が悲嘆の声を漏らすと、ルチアは控えめに笑いました。

「ふふ、私がその顔を見て楽しむため、かしらね」

「いくらなんでも性格が悪いです」

「そうね、ごめんなさい。お詫びがわりに一つアドバイス。オールを漕ぐときには腕ではなく上半身を回すようにするといいわよ」

「……これはご丁寧に、どうも」

 私は大きくため息をついて、ボートの木の縁に体重を預けました。両腕が疲れ果てて木の棒にでもなったかのようでした。

 そんな私を、ルチアは興味深そうに眺めていました。

「それにしても、エリーの体力は底なしなのかと思っていたけれど、案外音を上げるのが早かったわね。森育ちで水の扱いに慣れていないというのもあるでしょうけど」

「はあ。どうしてそんなことを思っていたんですか」

「だって、トロエスタからシオン宮まで三日かけて歩いてきたけれど、一度も休憩をとっていないでしょう。流石はエルフの体力だと感心したわ」

 ルチアは彼女にしては珍しく、嫌味のない声音で言いました。

 それが私には異様にくすぐったくて、目を逸らして「そんなおおげさな」と誤魔化しました。

「そんなことを言えば、ルチアだって私と一緒に歩いて来たんじゃないですか。さっきは体力に自信がないというようなことを言っていましたけど」

「私はあなたたちとは身体のつくりが違うもの。まあ、そういう意味ではあなたも同じかしら」

「……? どういう意味です」

「今はいいわ。とにかく、あなたの働きには大いに期待しているんだから、これからはもっと気合い入れてもらわないと。いざという時にバテてもう動けません~では困ってしまうわよ」

 ルチアは私の膝を平手で軽くたたきました。

 いざという時、というのがどんな時かは今ひとつぴんときませんでしたが、期待されているということだけは分かりました。

「……………」

 そういえば、私はいつまでルチアと一緒にいるのでしょうか。

 思い返せばこうなったのは偶然の成り行きで、私には森が焼けたあの日から帰る場所も行くべき場所もないのですから、とりあえずルチアについて行くのが一番良い選択肢だと思われました。

 しかしルチアの方には、たまたまその場に居合わせたという義理くらいしかないのです。それこそトロエスタ辺りで、適当な食い扶持をあてがって別れてもよかったはずでした。あるいは、もしかすると次の街でそうなるかもしれないのです。

 その時、私はどうするのでしょう。

「どうしたの、急に難しい顔をして」

 はっと気付くと、ルチアが私を顔を覗き込んでいました。

 何でも見透かしたような瞳が、私を中心に見据えているのが見えます。

「……いえ、期待に応えなくてはと思っただけです」

「あなたにしては殊勝な心がけね。ようやく肉体労働担当としての自覚が芽生えてきたようね」

「どうも。ところで、次に行くのはどんな所なんですか」

「次の街は……あ、見えてきたわよ」

 ルチアは私が考えていることもおおよそは見透かしていたのでしょうか。何にしろ、私と彼女について、ルチアが何も考えていないはずはありません。

 それでも何も言わない限りは、私から藪をつつく必要もないでしょう。

「シオン宮と湖を挟んだ対岸にある、あれが城下町シオンよ。あそこで少し腰を落ち着けようと思っているわ」


 湖上に立ち込める薄霧の向こうに、ぼんやりとシオンの街並みが見えてきました。

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