第11話 孵化

「合格だ、エリー」

 父様は静かに、しかしはっきりとそう告げました。

「はい、父様」

 私の胸には喜びも昂りもなく、ただ静かな手ごたえ―――チャンスをものにしたという自信、と言ってもいいかもしれません―――が湧き上がってくるのでした。その手ごたえが、私に昨日までなかった力を与えてくれるような気がしました。

 父様はもう事は済んだという様子でくるりと背を向け、仕留めたばかりのグラオエーバーにかがみこみました。

「エリー、すまないが、キッチンから大きめのナイフを持ってきてもらえるか。……あと手袋も」

「はい。すぐに」

 グラオエーバーからは肉が取れます。

 獲物の処理にはいくつかの工程がありましたが、血抜きと内臓を取る作業は仕留めた直後にすぐ行わなければならないそうで、私はやったことがありませんでした。

「ちょっと待て」

 精一杯の威勢で震え声が絞り出されたのを聞いて、私は足を止めました。

「待てよ。なんで何も言わないんだ。何か、何か言ったらどうだ」

 今にも泣き出しそうな声は、誰に向けて発しているのかも判然とはしませんでした。

 土の上に尻餅をついたまま、腰を抜かして立ち上がることさえできない彼が、泣き言を言うためにこんな虚勢を張らねばならないことは、いっそ悲劇的と言ってよいのではないかという気がしました。

「……怪我はない、カリー」

「ない」

「それはよかった。泥だらけの服は別々に洗うから、脱いだら分けて置いておいて」

 私は何も言うべきではなかったのでしょう。何も言わずに立ち去るべきだったのです。それは分かっていたのですが、どうしても彼を憐れむ心が勝ってしまって、私は口を開かずにはいられませんでした。

 繊細で傷つきやすいカリーの心は、私の言葉に込められたその憐れみを敏感に感じ取ったようでした。

「なんだよ。もっと責めろよ。しくじったって、出過ぎたことをしたって馬鹿にすればいいだろ。どうせ腹ん中では思ってるんだ。やさしさのつもりか? そうやって俺のことを見限っていくんだ。いつも、お前たちはそういうやり方をするんだな」

「カリー。もういい」

「父さんもだ。何だよこれ、どうして姉さんがこの試練を受けてるんだ。これは男しか受けられない特別な試練だって言ってたのは嘘だったのかよ。ずっと隠れて訓練してたんだろ。そうだよな、俺なんかより姉さんの方が、はるかに見込みがあるんだもんな」

「カールハインツ!」

 父様は大音声を上げました。

 低く唸りのある声は空気をかたまりごと震わせて、他のあらゆる音を掻き消していきます。草葉の下の虫さえも憚って鳴りを潜め、私は声を発することを禁じられたかのようでした。

 ただその場にいただけの私でさえそうだったのです。その暴力的なほどの圧を真正面から受けたカリーは、喉元を直接握り潰されるような気分だったに違いありません。

「……………なんだよ」

 だから、そんな益体のない一言でも、言えただけ私は評価してあげたいくらいです。

「あとで言い分は聞いてやる。あとで説明もしてやろう。だから、今はだまっていろ」

 父様は怒りのない落ち着いた声で、何の口答えも許さないという冷えきった声で、ただ事実を述べるように淡々と言いました。

 時が凍り付いたかのような数秒間、ルチアだけが素知らぬ顔で、空になったカップを手持ち無沙汰そうにつまんで揺らしていました。

「何でも構わないけれど。を早くどうにかした方がいいんじゃないかしら。硬くなって筋張った肉なんて私、食べたくないわよ」

「あっ、はい。今ナイフを持ってきます」

 我に返った私が走り出しても、カリーは地面にへたり込んだまま、微動だにせずうなだれていました。


     *


 その日の食卓には、新鮮な肉料理が並びました。

「ソフィーの料理はこの家の宝ね。ソフィーがいてはじめてこの家があると言っても過言ではないくらいだわ」

 ルチアが、ベランダの手すりに寄りかかりながら言いました。

 私の部屋には小さなベランダがあり、眠れない夜には風を感じたり、月明かりを浴びたりすることができました。

「そんなにですか」

「ええ、あなたはもっと彼女に感謝すべきよ。ソフィーなら街に出て店を構えることだってできるわ」

「母様への感謝を忘れたことなんてないですよ」

 ルチアに改めて言われるまでもなく、母様の調理技術はほれぼれするほどで、病気で身体が動かず、家事の多くを私に任せるようになっても、キッチンにだけは自ら立っているのでした。

 今日のグラオエーバーも、これ以上ないほどに上手に素材の味を引き出し、豊かとはいえない調味料で驚くほど多彩な味わいを実現していて、本当ならもっと舌鼓を打っていたかったのですが。

「それにしても、雰囲気の方は本当にひどかったわね。折角の料理が泥みたいな感触だったわ」

 テーブルを挟んで向かい合った父様とカリーが、そんな食卓を台無しにしていたのでした。

「すみません」

「どうしてエリーが謝るの。あなたに非はあんまりないと思うけど」

「いえ、きっと私にも責任の一端がありますから」

 父様はともかく、カリーについては、私がもっとうまくやれていればこれほどまで事態が悪化はしなかったでしょう。私はとかく彼に関しては、打つ手を誤ってばかりです。

 ルチアはつまらなさそうに息を吐きました。

「こんな夜に、心にもないことを言うのはやめなさいな」

「え?」

 ルチアは月を背にして、私の方へ身体の正面を向けました。

 こんなにも星空を背負うのが似合う人は他にいないというほど、彼女の姿は夜空に溶け込んでいました。

「今夜だけじゃないわ。そんな上っ面の言葉を吐くのはもう金輪際やめなさい。まったく、昼間のあなたはもう少しましな顔をしていたのに、あれは白昼夢だったのかしら?」

「ルチア? いったい何を」

「困ったときに分からない振りをするのもよ。その癖、あんまり気持ちがいいものじゃないわよ」

 いったい彼女は私の何を知っているというのでしょう。

 そうやって自信満々に言えば、どんなに牽強な言いがかりでもそれらしく聞こえるものです。ましてやルチアには、不思議な説得力で人を言いくるめる特殊能力がありました。私には彼女がそれを最大限に悪用しているように思われてなりませんでした。

 しかし私が何も言い返せなかったのは、ただ彼女の勢いに押されたからだけではありません。

「……私が、嘘をついているように見えましたか」

 私は、私のことがまだ分からないのです。

「ええ、見えたわ。自分の本心に蓋をして、偽って、人におもねるのが癖になっているように見えた。違ったかしら?」

「分かりません。まだ、分からないんです」

 なんと情けないことでしょう。分からないと言って嘆くだけなら、足腰の立たない赤子でもできましょう。

 しかしルチアは、私の予想とは裏腹に、一転優しげな眼差しで私を見つめました。

 それは、ふとした時に母様が私を見守っている時の瞳に似ていました。

「まあ、そう言えるようになっただけでも成長ということにしましょうか」

 そして身を翻し、手すりに両手をしっかりと乗せて、

「あなたはまだ赤子のようなものなのよ。はじめて自分の目で世界の見た赤ん坊。あなたに必要なのは何よりも経験だわ」

 夜の冷たい空気の中に、白い翼を広げました。

 私が彼女の翼を見るのはそれが二度目です。音もなく風もなく、まるで光の腕のように広げたそれは、手で触れられることが不思議なくらいに、この世のものじみていませんでした。

「ちょっと。人の羽根に勝手に触れるのはマナーが悪いわよ」

「あっ。ごめんなさい」

「気を付けなさいな。世間は私のように温厚で穏健な人ばかりじゃないのよ」

「すみません」

 ルチアが本当に『温厚で穏健』なのかどうかには、まだ議論の余地がありそうでしたが、特に否定する理由もないので言いませんでした。

「でも、ルチアがあんまり綺麗だったものですから」

 先ほどの仕返しというわけではありませんが、つい私は意地悪な言い方をしました。

 こちらが変に遠慮をするから、ルチアに付け入る隙を与えるのです。いっそ素直に褒めてしまえば、逆にルチアの方に隙が生まれるのではないかと思ってのことでした。

 しかしルチアは予想を裏切って泰然としたまま、

「あら、エリーの方が素敵よ」

 私との間の距離を詰め、私の髪を肩から軽く掻き上げました。

 白蛇のような細くしなやかな指先が、私の首筋に触れて、夜の冷たさを運んでくるかのようです。

「……ふぇっ、えっ」

 突然の出来事に私は数秒ほど反応できず、素っ頓狂な声を出すことしかできませんでした。

 そんな様子を見て、ルチアは満足げな含み笑いとともに私の顔の前に人差し指を立てました。

「こうやるのよ。覚えておきなさい」

「……それも経験ですか?」

「ええ。でも筋は悪くなかったわよ。もう少し口説き文句が垢ぬけていたら、私も不意を突かれていたかもしれないわね」

 それからルチアは動きを確かめるように翼を軽くはばたかせ、ふわりと浮くように跳んだかと思うと、ベランダの手すりに足をかけました。

 ルチアが私に右手を差し伸べました。

「どうしたの、ぼうっとして。手を取るのか取らないのか、はっきりなさいな」

「えっ、あの、何ですか」

「決まってるでしょう、夜遊びよ夜遊び。こんな夜に大人しくベッドに入っていたら、世界の半分しか知らないも同然だわ。知恵者のフクロウだって夕方にしか飛び立たないというわけではないでしょう?」

 私はまだ訳が分かっていませんでした。

 しかし今にも夜空に飛び去って、そのまま星になってしまいそうな彼女を見れば、その手を取らないという選択肢は考えられませんでした。

 私の手のひらとルチアの手のひらが重なった時、ルチアの翼がはためいて重力の鎖を振りほどいた時、私にはもう、その先に何が待っているのか分かりませんでした。

 きっとルチアにそう言ったなら、人の一生とはそういうものよと笑うに違いありません。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る