第10話 試験

「では今日の本題に入ろう。先日のグズリ狩りの件だ」

「はい」

 父様は改まって言いました。

「我々の一族は、成人した男以外が弓を扱うことを原則として禁じている。正確に言えば、想定していない。武芸と狩猟は男の領分だからだ。少なくともこの数百年、弓を手にする女がこの村に出たことはない」

「はい」

「だから、俺はお前にこの話をするべきか迷っていた。この数日ずっと悩んでいた。だが、お前の顔つきを見て心を決めたよ」

 そう言って、父様は私に弓と一本の矢を手渡しました。

 弓は新しく仕立てたもので、まだ新弓独特の引きの硬さがありました。矢も同じく木くずの香りがしましたが、矢じりだけは私が削ったものでした。

「父様、これは」

 私が視線を向けると、父様はまっすぐに私を見つめ返していました。

 問うまでもなく、私にはこの行為の意味が分かっていたのです。

「使えるか。拵えには気を遣ったつもりだが、お前の身体に合わせた弓がどんなものか今一つ自信がなくてな」

「いえ、扱いには問題ないのですけど……」

「他に何か問題があるか」

 それでも、私は問わずにはいられなかったのです。

「父様は私には弓をやらせないというお考えだったのではないですか」

 あるいはそう問うこと自体が、一つの答えになっていたのかもしれません。もはや私は唯々諾々と与えられた役目を果たすだけの娘ではなく、父様に面と向かって疑問をぶつけることができる、一人の大人でした。

 父様はため息をついて、首を力なく振りました。そこには嘆息というよりも、自嘲の色がにじんで見えました。

「そのつもりだった。しかし俺の意識が甘かったのか、それともこれが運命なのか……。お前はろくな訓練も受けないまま、俺たちに交じって狩りに出られるほどに成長し、その技量をいかんなく発揮して見せた。これほどの才能を見せつけられては、俺も考えを改めないわけにはいくまい」

「そんな、買い被りすぎです」

「違う。むしろ俺はお前を買っていなさ過ぎた。長じてから表立って口にすることはなくなっても、お前の弓への興味と情熱が失せていないことは知っていた。それがいかに稀有なことか、お前にはまだ分からないのだろうな」

 私はそれ以上何も言い返す気にはなりませんでした。

 父様がちゃんと私のことを見てくださっていたことが嬉しいようで、隠しきっていたつもりの秘めた思いが見透かされていたことが恥ずかしいようで、そして何より、父様の言うことにはただの一つも間違いがなかったのです。

 どれほどそれっぽい言い訳を並べたところで、私が父様の目を盗んで狩りへと駆けたことは事実なのです。

「では、私も、父様に弓の手ほどきをしていただけるということですか」

「そういうことになる。だがそのために一つだけクリアしておかねばならないことがある」

 父様は視線で、木々の生い茂る森の方を私に示しました。

 そのあたりの森には、私も薪を拾ったりするためによく入りました。比較的手の行き届いた、安全でよく見知った森です。

 よく見ると、木々の中でひときわ樹高の高いトネリコの木の、大きく外側へ張り出した枝の先に、腕一本分ほどの直径の木の板が吊り下げられていました。

「その弓で、あの的を射ってみろ。命中させられたら正式にお前に弓を教えることにする」

 父様は改まった調子で、厳粛そうに言いました。

「これは我々の男子がみな通過する成人の儀を模したものだ。いささか特別な形にはなるが、お前に弓を教えるためには、お前にもこれを通過してもらわねばならん」

「男子がみな……ということは、カリーも?」

 私が気になって尋ねると、父様は少し悩んでから、「これはきわめて個人的なことだ」と答えをはぐらかしました。

 どうやら男子には、男子だけが知るいくつかの通過儀礼があるらしいということは、何となく知っていました。ただその中身についての詳しいことは娘である私には知る由もないことでした。

 しかしその秘密さえ、今や私の前に姿を現し、私の手の届くところまで接近しているのです。

「分かりました」

 私は緊張の中に確かな高揚を感じながら、手のひらの中で弓を何度も握りなおしました。

 与えられた矢はきっかり一本。これは試射も二射目も許されないということでしょう。新品の弓はどんな軌道で矢を飛ばすのか分からず、的までの距離の見当をつけようにも、中途半端な空中に吊られた的は目測もままなりません。

 単純な確率の話をする限り、あまりにも分が悪いと言わざるを得ません。

「父様。もし外した場合はどうなるのでしょうか」

 テストであれば、失敗した時のリスクも考えなければなりません。もし失敗すれば二度とチャンスがないのなら、せめて練習期間を設けてもらうよう交渉することも考えていました。

 しかし父様は、何でもないことのように表情を崩さず答えました。

「考えていなかった。その時に考えよう」

 父様は、私がこの一矢を仕損じることなど、はなから想定していないようでした。

 この程度の遠矢は父様にとっては必中なのかもしれませんし、はたまた父様が私の腕前を過剰に評価していたのかもしれません。あるいは本当に失念していたという可能性もあります。

 いずれにせよ、父様は私に、必ず命中させることを期待しているのです。

「分かりました。では、射ちます」

 であれば、私が外す道理はありません。

 的に対して身体を斜めに構え、矢を静かにつがえて、肩を使って弓を引き絞ります。矢羽が目の近くに来るまで引くと、そこがあるべき場所かのように、視線の先に矢と的が一直線上に並びました。

 タイミングを見透かしたように風がぴたりと止み、鳥の鳴き声ひとつさえ聞こえてきません。狙いをつけるには今しかないと感覚の全てが訴えていました。

 なのに、私の指先は凍り付いたように、矢を放とうとしないのです。

―――あの夜は。

 刹那を永遠に引き延ばしながら、私は考えました。

―――あの夜は、どんなふうだっただろう。

 あのグズリを射った時の私は、自分の矢が外れるなどとは夢にも思っていませんでした。まるで手を離したリンゴが地面に落ちるように、私の指先を離れた矢は獲物に刺さる、それを疑うことさえありませんでした。

 今の私はどうしてしまったのでしょうか。

 手の震えが止まらないのです。狙いを定めるべきポイントも、矢を放った後の腕の置き場も、分からなくなってしまったのです。

「エリー」

 誰かが私の名を呼びました。

 長く持ちすぎている私を父様が訝んだのでしょうか。しかし私はもはや弓を引き戻して仕切り直すことさえできなくなっていました。

「エリー」

 今弓を戻せば、もう二度と引くことができなくなってしまう気がしたのです。

 たとえ父様がもう一度チャンスをくれたとしても、私は弓を引く手を失ってしまう。あの的は私の手の届かないところに遠ざかってしまう。今なら、今はまだ、届くはずなのです。目の前がどんどん雨雲垂れ込めたように暗くなり、もう自分がどの方向を向いているかさえ分からなくても。


「エリー! 避けなさい!」


 ルチアの叫び声が聞こえました。

 暗雲が晴れ、冷たい微風が頬を撫でて、葉擦れの音とともに小鳥の囀る声がどこからともなく聞こえてきました。

 それとほぼ同時に、私の真横の茂みがガサガサと猛烈な勢いで騒ぎ、そこから大きな物体が二つ飛び出してきました。

 そのうちの一つは、よく見知った人の姿でした。

「カリー!」

 茂みから逃げ延びるように飛び込んできたのは、全身に葉っぱやら木の枝やらでまみれさせたカリーでした。

 そしてカリーを追うように遅れて闖入してきたのは、グラオエーバーです。

「ねえさ……父さん! 何とかしてくれ! 頼む!」

 グラオエーバーはくすんだ銀色の体毛が特徴的な獣です。大きさはさほどでもありませんが突進力に優れていて、グズリと並んで森の中で注意を要する野獣でした。今は特に激昂しているようで、大きな鼻から吹き出す息の熱気を感じそうです。

 一体どんなヘマをすればこんな状況になるのかは分かりません。しかし事の次第が如何にせよ、ここまで侵入されてしまったのなら安全のために仕留めざるを得ません。

「くそっ、今は……。エリー!」

 父様が私を呼ぶ声が早いか、私の手と身体はほとんど自動的に動き、グラオエーバーの方へと狙いを切り替えていました。

 見ると、グラオエーバーの背中の高い位置に、二本ほど矢が刺さっているのが見えます。恐らくカリーが射ちこんだものでしょう。

 当たり所が悪かったのか、有効なダメージは与えられず、かえって荒いとは言えない気性をこれ以上なく刺激してしまっているようです。グラオエーバーは基本的には穏やかな生き物ですが、森の獣の常として、自らに危害を加えるものを決して許さないという性質がありました。

 彼此の隔たりは十数歩といったところでしょうか、猛烈な速度でカリーに向かって突進するその体躯と、矢の飛翔軌跡の重なる点が、私の目には間違えようもないほどにはっきりと見えていました。

 あれほど凍り付いていた指先は、雪解けのようにするりと滑ってゆき、矢は所定のポイントへと迷いなく直進していきます。

 それが狙った通りにグラオエーバーの頭部を突き抜け、中枢を失った獣の脚がもつれて地面に倒れ込むのを、私は奇妙に落ち着いた気持ちで見ていました。

「……お見事」

 やや間をおいて、ルチアが呟きました。

 気づくと、額にはじっとりと汗がにじんでいて、それが風にさらされて爽やかな涼しさを運んでいました。

 地面に倒れ込んだカリーは絶句した様子で私の顔をじっと見つめていて、私が見つめ返すと忌々しげに顔をそらしました。助けてもらった身の上で、と思わなくもありませんでしたが、もし私が彼と同じ立場だったなら同じ振る舞いをしたかもしれない、と思うと少しは優しい気持ちになりました。

 父様がグラオエーバーに慎重に近づき、獲物が確かに絶命していること、他に仲間がいないことを確かめて、私の方を向き直りました。


「エリー。合格だ」

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