第12話 夜遊び

 空を自由に飛んでみたいと思ったことがあるでしょうか。


 私はありませんでした。

 それどころか私は、大空にかすかな恐怖さえ感じていたような気がします。空へと昇った煙は決して戻ることはなく、なのに空からは何処からとも知れない水がしきりに降ります。底の見えない穴を覗き込むような、何かから覗き込まれているような、そういう訳もない恐怖に襲われてしまうのです。

「ふふ、意外とかわいらしいことも言うのね」

 私のそんな告白を、ルチアは鼻で笑いました。

「これでも割と真面目に話しているんです」

「分かってるわよ。そんな大真面目そうに言うからかわいいんじゃない」

 不意に風が吹いて、ルチアの身体がぐらりと傾きました。

「やっぱり分かってませんよう……」

 するとルチアに抱きかかえられるようにして浮いている私の身体は、そのあおりを受けるように大きく振れました。

「空を飛ぶのはまだ慣れないかしら?」

「まだ二回目ですよ。それとも森の外ではこれくらい普通のことなんですか」

「どうかしらね。まだ空で人とすれ違ったことはないけれど」

 ルチアはあからさまにとぼけました。

 遺跡探索の日の帰り道に飛んでから、ルチアは一度も翼を出していません。それは翼での飛翔がそれだけ特別なことだからに違いありません。

「この翼も、魔術というやつなんですか?」

 私は気になっていたことを尋ねました。彼女と一緒にいるとおかしことだらけで、何から尋ねればいいのか分からなくなります。

 ルチアは唸って思案してから、

「まあ、そんなものだと思ってもらえばいいわ」

 と曖昧な返答をしました。

 恐らく厳密には違うのだろうということは分かりましたが、厳密な説明をされても咀嚼しきれないでしょうから、私もそれ以上は尋ねませんでした。

 ルチアは風に乗ってまた一段、高度を上げました。

 空を飛ぶのには独特の気持ちよさがありますが、ルチアの細腕に抱えられているだけの私は、下方を見るたびに腹の底がゾっと冷たくなります。

 私のそんな様子を見てか、ルチアはやや悪戯っぽい調子を含んだ声で私をなだめました。

「大丈夫だってば。私のことを信じなさい」

「信じたからってどうにかなるものじゃないでしょう。心の問題じゃなくて身体の問題です」

「それは自分の身体を支配できていないということかしら? 武芸に生きていく決心をした者の吐くセリフとはとても思えないわね」

 ルチアの言葉にはいつでも、耳をくすぐるような甘い響きと、皮膚をつねるような毒が混ぜ合わされていました。

 耳をふさぐこともできず、かといって右から左へ流しているには気分が悪くて、つい一言だけでも言い返したくなってしまうのです。

「一体いつ私がそんなことを言いましたか」

「あら、私は『決心をした』と言ったのよ。あなたが実際に口に出したかどうかは問題にならないわ」

「じゃあ、私がいつそんな決心をしたって言うんです」

「していないの?」

 ルチアの翼が一度大きく羽ばたきました。空と大地が少しだけ揺れました。

「私はただ、父様に弓を教わるだけです」

「言い方が違うだけだと思うけれど。少なくともアルフレッドはそう思っているんじゃないかしら」

「……昼間からずっと気になっていたんですが、ルチアは父様とお知り合いなんですか?」

 ルチアは、話をそらしたわね、と言わんばかりの余裕に満ちた笑みを浮かべました。

 そうやって何もかも見透かしたような態度を取るのが、彼女にとって得意のスタイルなのだと、私はようやく理解し始めていました。しかし、オオカミよりも金色にきらめくその瞳は、実際に隠された世界の真実さえ見通しているかのようだったのです。

 彼女は果てしなく広がる黒い森の、ある一か所を指さしました。

「その答えはまあ、彼に直接聞いてみればいいんじゃないかしら」

 空中に雑に突き立てられた指先が一体どこを指さしているのか、私はすぐには分かりませんでした。

 夜目にはいくらか自信がありましたが、鬱蒼とした森の中から、砂粒ほどまで小さくなった人影を捉えるのはそう簡単ではありません。ルチアが高度を下げ、やがて風に乗って自然のものではない物音が聞こえて、ようやく私はそれを認めました。

「あれは……父様と、カリー?」

 森の中の少し開けた場所に、見覚えのある姿が二つ見えました。

「ええ。あの二人はあなたたちが寝静まった後、毎晩ああして涙ぐましい訓練を重ねているのよ。昨日も、今日も、きっと明日も」

 まだ少し距離があって、二人が具体的に何をしているのかはわかりませんでした。

 しかし途切れ途切れに聞こえてくる怒声にも似た声、矢が木の幹に刺さって立てる甲高い音、そして常に忙しなく動き続ける人影を見れば、ルチアの言葉を疑う理由はありませんでした。

「……全然知りませんでした」

「あなたに知られないようにわざわざこんな時間を選んでいるんだから、当たり前よ」

「どうして。それに、それじゃあ二人は一体いつ寝ているんです。一睡もしていないということですか」

 カリーはともかく、父様はいつも私と同じ時間帯に生活していたはずです。しかしよく思い返してみれば、朝は私より早く起き、夕は私よりも遅く寝ていて、父様が実際にベッドに入るのを見たことはありませんでした。

 ルチアは混乱する私をなだめるように肩をすくめました。

「だから直接聞いてみればいいじゃない。仮に私がそれに答えたとして、あなたは一体どうするつもりなのかしら?」

「それは……」

「父親が怖いの?」

「まさか!」

 私はつい声を荒げました。

 それに反応したように、ルチアがふわりと高度を上げます。翼を優美に広がったままはばたかず、本当は翼などいらないのではないかという気になりました。

「あまり大声を出すと気づかれてしまうわよ。別に私はそれでも構わないけれど」

 父様の耳ざとさは、村の中でも一二を争うほどでした。

「すみません。……もう戻りませんか。二人の邪魔をしたくありません」

「そう? まあ、あなたがそう言うのなら、今日の夜遊びはここまでにしておきましょうか」

 そう言うと、ルチアは風に乗って家の方へ空を切って飛び、一息もつかぬうちにまた私の自室のベランダに降り立ちました。

 見慣れた部屋に戻ってきた私は、ルチアの腕から解放されるや、よろけるようにベッドに倒れ込みました。

 父様とカリーの秘密の訓練を見てしまった罪悪感、ルチアへの問いをはぐらかされ続けるもどかしさ、そしてはじめての夜遊びの言いようのない高揚―――色んな気持ちがないまぜになって、頭が爆発しそうでした。

「ふう、やっぱりたまには羽根を動かしておかないと鈍ってしまうわね」

 そんな私の気持ちなどよそに、ルチアはどこかさっぱりとした顔をしていました。

「今日は付き合ってくれてありがとう。また今度も誘っていいかしら?」

「これくらいなら全然いいですけど。……羽根を伸ばすだけなら、別に私は必要ないのでは?」

 率直な疑問をぶつけると、ルチアは呆れた顔で首を振りました。

「あなたがいないとだめよ。何のための夜遊びだと思っているの」

「何のためですか?」

「分からない? 本当に?」

「分かりません。本当に」

 ルチアはもう一度あきれ顔でこれみよがしなため息をつきました。

 そのわざとらしさは少し鼻につきましたが、感情的になってはルチアの思うつぼです。それに私は疲れもあって思考がうまくまとまらず、ただルチアの返答を待ちました。

 ルチアは屈託のない、天使のように穏やかな笑みを浮かべました。


「楽しいからよ」

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