第13話 朝飯前
「おはよう、エリー。今日も早いな」
翌朝、のそのそと起きだした私に、父様はいつも通り声をかけました。
「おはようございます」
「? 顔色が悪いようだが、大丈夫か。疲れが溜まっているのならゆっくり休んだ方がいい」
「……いえ。少し眠りが浅かったみたいです」
昨晩深く眠れなかったのは事実です。
ルチアとの夜間散歩から帰ってきた後、疲れてすぐ寝てしまった私は、しかし色々なことで頭の中がこんがらがって、ろくに眠った気がしないのでした。
「だったらいいんだ。……それで、昨日のことなんだが」
「は、はい」
もしかして昨晩見ていたのに気づかれていたのかと思って、私は一瞬ぎょっとしました。
「お前もこれから本格的に弓を使うことになる。それで訓練の時間を作ってもらいたいんだが、今日の昼過ぎからどうだろう」
どうやら気づかれてはいないようです。私は胸をほっと撫で下ろしましたが、よく考えると、どうして私がこんなに気を揉んでいるのでしょう。
別にやましいことなどないはずです。仮にあれが見てはいけないものだったとしても、私はルチアに見せられたのであって、変に隠そうと躍起になるよりも、はじめから素直に言ってしまって謝罪する方が、ずっとまともな選択なのではないでしょうか。
「カリーとは、一緒ではないんですね」
そんな気持ちに揺れて、私は中途半端な言い方をしました。
「お前たちにはそれぞれに合わせたメニューを用意してある。カリーはカリーで既に訓練を進めているが、まずは別々にしたほうがいいだろう」
父様の答えは肩透かしなほど穏当でした。
「分かりました。では昼過ぎにどちらで」
「裏の森に小さな空き地がある。知らないだろうから案内しよう。準備が出来たら声を掛けてくれ」
言うべきことは全て言ったかのようなそっけなさで、父様は背を向けて去っていきました。
思えば父様はいつでもそうです。父様の発する声に一つとして無為な言葉はなく、父様の一挙手一投足、視線の一条、吐息の一欠片にさえ、かくあるべきという意思を感じるのです。
私はそんな父様の質実さを好ましく思っていましたが、どうしてでしょう、今は父様の言葉は私の心を上滑りして、余計なことばかり気になってしまうのでした。
「どうしたの、エリー?」
目の前に二つ、こちらを覗き込む金色の瞳がありました。
「なんだ、ルチアですか」
「開口一番に人に向かって言うセリフがそれ? あなたもなかなか腰が高くなったわね」
冗談めかした言い方やわざとらしい仕草から、ルチアが本気で怒っているわけでないことは分かりました。
「そういうつもりじゃなかったんです。……少し考え事をしていて」
「そのようね。眉間にしわが寄ってるわよ」
ルチアの指先が私の眉間をなぞると、確かに力が入っていたことに気付きました。
触れた指先の温かさが、皮膚を通って深くまで染みこみ、じんわりと体中に広がっていくような感じがしました。
昔、記憶も定かでないほど幼いころ、まだ体を悪くする前の母様が、私を抱いて背中を撫でてくれた時のような、そういう温かさです。おぼろでまばらな思い出の中の母様には、いつもこの温度がありました。
ルチアと母様が特別似ているとは思えませんが、私は時折、ルチアに母様の面影を見ることがあって、それがとても不思議でした。
「おはようございます。ルチア」
「ん? ええ、おはよう。……いい顔になったわね」
ルチアは満足げに微笑みました。私の顔もつられて綻んでいたでしょう。
「それで、アルフレッドとは何の話をしていたの?」
「見ていたんですか」
「見ていなかったから聞いているのよ。まあ、おおよその予想はついているけれど」
「……今日から本格的な訓練を始めるっていう話です。昼過ぎからだそうですから、今後はあまりルチアの散歩には同行できないかもしれません」
「なるほど。それで妙にアルフレッドの機嫌がよかったのね」
「父様が?」
私が洗面台で顔を洗うのを、ルチアは横に立って見ていました。
朝の冷たい水が眠気を帯びた頭を冴えさせ、ようやく一日の始まりという感じです。私はこの瞬間が気に入っていました。
「気付かなかった?」
「全然。父様はいつも表情を崩しませんし」
「娘に気付いてもらえないんじゃアルフレッドもかわいそうだわ。彼は表情を隠すのはうまいけど、その分が他のところに出ているのよ。もとが感情豊かなタイプだからかしら」
「父様が、感情豊か……」
ルチアの言っていることは私には容易には呑み込めないことばかりで、数呼吸の間をおいてようやく咀嚼することができました。
濡れた顔をタオルで拭きながら、私は昨晩の問いをもう一度投げかけました。
「結局ルチアと父様はどういう関係なんですか? 聞いている感じ、かなり古いお知り合いみたいですが」
「昨日の夜も言ったでしょう。どうしても気になるなら、アルフレッドから聞き出してみなさいな」
「……では一つだけ確認しますけど、本当にそれは父様に直接聞いてもいい話なんですか?」
私が言いづらくて言外に含み持たせた意味合いを、ルチアは敏感に汲み取ったようでした。
意地の悪い笑みを浮かべて、ルチアは私を嘲笑交じりに見ます。
「あらあらまあまあ。エリーったら一体どんなことを想像したのかしら。純朴そうな顔をして意外とちゃっかりしてるのねえ」
「……何を言っているのかさっぱり分かりません」
「でも安心して。別に私とアルフレッドの間には何もないわ。少なくともあなたが心配するようなことはね。何なら、ちゃんと言葉を交わしたのだってここに来てからがはじめてじゃないかしら」
私は内心安堵しましたが、そうなると疑問は解決していないままです。
父様に聞けばいい、というルチアの意見は理に適っています。私も他人事ならば同じことを言うでしょう。しかし、私はどうにも、父様に過去のことを聞く勇気がなかったのです。
それは父様自身が、意識的に過去の話を避けている節があったからです。仮に父様から聞き出そうと思えば相当根気よく食い下がる必要があるでしょうし、その結果もし聞きたくない話が出てきてしまったら、いったい私はどうすればいいのでしょう。
「……別に私は意地悪でこう言っているのではないのよ。これはあくまでもアルフレッドの口から言うべきことだから、私からは何も言えないだけで。……でも、そうね」
そんな私の懊悩を少しでも分かってくれたのでしょうか、ルチアは慎重に言葉を選んで、
「もしもあなたがアルフレッドの元を離れて生きていくことになったら、その時は話してあげる」
と言い捨てるようにして、背中を向けて去っていきました。
「あ、そうだ。遺跡探索の件だけれど」
と思ったらひょっこりと戻ってきました。
「これからもエリーには一緒に来てもらうわ。その時には時間帯を調整するか、こっちで事前にアルフレッドに話を通しておくから。安心して訓練と探索の両立に励んで頂戴」
「えぇ……。まあいいですけど、本当に私必要ですか。いつもついて行ってるだけで何もしていませんけど」
「そう卑屈になるものじゃないわ。あなたがいないと困るんだから」
「卑屈もなにも。何もしていないのは事実じゃないですか」
「それを卑屈って言うのよ。とにかくあなたは絶対に必要だから、今後もどうぞよろしくね」
ルチアはそう言い残して今度こそ去っていきました。
ルチアの遺跡探索は―――探索という表現が正しいのかも最早わかりませんが―――ルチア一人でも十分にやっていけそうで、どうしてルチアがそこまで私のことが必要だと言い切るのか、私には全く分かりませんでした。
しかし、こう面と向かって必要だと言われること自体が、私にはほとんど初めてのことだったのです。
冷たい水で冷え切ったはずの顔が、にわかに熱くなるのを感じながら、私は朝食の準備のためにキッチンへと向かいました。
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