第14話 風待ちの丘

 時間は矢のように飛ぶ、という言い回しがあるそうです。

 少し前の私にはピンとこなかったでしょうが、今はよく言ったものだと思えます。日常の細々とした仕事、厳しいながらも堅実な訓練、そうしたするべきことを着実にこなしていくと余計なことを考える時間はなく、あっという間に日々が過ぎていきます。

「エリー、少しいい?」

「なんでしょう、ルチア」

「これから時間あるかしら。少し付き合ってもらいたいのだけど」

「今日ですか? ええと……」

 矢のように、というのが言い得て妙でしょう。

 意識して注視すれば飛翔する矢を捉えることもできるでしょうが、逆に意識しなければ矢は目にも留まらぬ速さで過ぎ去り、気付いた時には既に矢ははるか遠くまで飛んで行ってしまうのです。

「すみません、今日は訓練があって。明日ではどうでしょうか」

「あらそう」

 ルチアは不満げな顔をして、私の様子を窺うように言いました。

「明日でもいけないわけではないのだけれど……、どうしてもだめかしら?」

 彼女のねだるような眼差しには、奇妙にも抗いがたい力があります。

 その眼力に負けたわけではありませんが、ルチアがこんな風に『お願い』することは珍しいことだったので、私は何かやむを得ない事情があるのだと斟酌しました。

「では父様に予定をずらせるか聞いてみましょうか。まだ準備には取り掛かっていないと思いますが」

「そうしてもらえると助かるわ。表で待ってるから、アルフレッドに許可を取ったら来て」

 飛ぶように過ぎていく時の矢は、このルチアのそばだけは、比較的にゆっくりと飛んでいくように感じられました。

 何がそう感じさせるのか、私にははっきりとは分かりません。きっと、彼女自身が時間の矢にまったく無頓着であるゆえに、つい矢の速ささえも忘れてしまうのでしょう。

「分かりました。すぐに行きます」

「待ってるわ。……今度のは少し物騒かもしれないから、よろしくね」

 私は、ルチアのその独特の雰囲気に惹かれていたのかもしれません。

 父様がどこにいるかと思案しながら廊下を歩いていると、ちょうど父様が母様の寝室から出てくるところでした。

 その横顔に、背筋の寒くなるような陰があるように見えて、私は一瞬声が詰まってしまいました。

「エリーか。ソフィーは今休んだところだ、何か用があるなら代わりに聞こう」

「いえ。……父様、今よろしいですか」

 私が父様に事の次第を説明すると、父様は存外あっさりと、

「なるほど。分かった」

 と承諾しました。

「よろしいんですか」

「ダメだと言った方がいいならそうするが」

「そういうわけでは」

「なら早く行くといい。彼女にはくれぐれも失礼のないようにな」

 父様はやはり、どこか疲れた様子でした。

 考えてみれば、連日の訓練―――それもカリーと私の二重進行を、父様は身一つでこなしているのです。その上に街への買い出しや村の会合などもあって、父様が疲れていても何も不思議はありませんでした。

 ならば早々に退散するのがいいだろうと背を向けた私に、父様は声を掛けました。

「ああ、夕方までには帰ってくるようにしてくれ。今日もソフィーは動けないだろうから」

「はい」

 ここ最近の母様は急に病気の具合が悪くなったようで、一日中ベッドに伏せたままという日も珍しくありませんでした。

 とはいえ、母様の様子は父様がしっかりと看ているようでしたので、私は母様の代わりに家のことをしていればよいのでしょう。そうして生まれようとする不安の種を抑え込んでいました。 

 半地下の倉庫には、父様やカリーと並んで、少し前から私の区画が備えられるようになっていました。弓矢や上着、ナイフといった装備はすべてそこに収められていて、メンテナンスのために必要な道具も揃っています。

 本格的な訓練が始まると、身に着けるものも普段使いとは違う、それ相応の物を用意しなくてはなりません。それでも慣れれば、数分のうちに完全装備を整えられるようになりました。

 まだ少し硬い手袋をつけると、革の冷たさがきゅっと肌を引き締め、全身に心地よい緊張感が走るのを感じました。

「お待たせしました。父様には了承をいただきました」

 外に出ると、風除けの外套のフードを被ってもなお刺すような寒さでした。

 特にここ最近は急激に冷え込み、空気も乾燥していよいよ冬の気配が強くなっているのを実感します。これも矢のように飛ぶ時間のせいでしょうか。

「早かったわね。準備も万端みたいで安心したわ」

 ルチアは、身体をすっぽり覆うような、長いクロークを着ていました。

「ルチアも珍しく重装備ですね。その上着、久しぶりに見ました」

 その黒いクロークは、私たちが初めて会った雨の夜にルチアが身に着けていたものです。

 それ以外にも、丈の高い厚底の靴やつば広の帽子など、今日のルチアの装いはあの日と全く同じでした。

「よく覚えているのね」

「あの日以来一度も着ていないようなので。かえって印象に残っていたんです」

「そうだったの。このコート、丈夫だし雨風に強くていいのだけれど、少し重いのが欠点なのよね」

 ルチアはクロークの端っこをつまみながら言いました。

「まあ、いいわ。行きましょうか」

 いつものように先を行き始めたルチアの後を歩きかけて、私の足はふと止まったのでした。

「……? どうしたの」

「あ、いえ。何でも……」

 その時の違和感を、私は言葉にすることができません。

 いえ、私が感じたのは違和感とさえ言えないくらいの、ほのかな予感のようなものだったのでしょう。きっと何事もなければ数秒のうちに忘れ果ててしまうような、些細な予感です。

「ぼんやりしてると置いてっちゃうわよ」

 そうならなかったのは、ルチアが意図して私の注意を逸らそうとしているのに気づいたからでした。

 ルチアはこちらを振り返ることなくずんずんと道なき道を進んでいきます。

 その時に彼女が何を考えていたのかは分かりません。膝下まで覆い隠すクロークと帽子はあらゆる視線を拒絶して、ただその後ろ姿が今までになく思案げに見えました。

 その後ろ姿に、私はいつかルチアと交わした会話を思い出していました。


***


『もっともすぐれた発明とは何かしら』

 確か遺跡を巡っている最中に、暇を持て余したようにルチアが言ったのです。

『もっともすぐれた発明?』

『そう、人の生み出したもの、編み出したものの中で、これこそは一番だ、というもの。エリーは何だと思う?』

『また急に漠然とした問いを……。さて、何でしょう』

『あまり深読みはしなくていいわよ。別に正解があるわけではないし、ただ話の枕にしようとしているだけだから。ただエリーならどう答えるか気になったの』

『まあ、そういうことなら……。そうですね、料理とかでしょうか』

『料理? どうして』

『特に深い意味はありませんけれど。でも、美味しい料理を食べると幸せな気分になるでしょう? ただのエネルギー補給を幸せな時間に変えられるなんて、すごいことだなって思うんです』

『なるほど。まあ、エリーらしいと言えばエリーらしくて、いいんじゃないかしら』

『それで、ルチアはどうなんですか?』

『私はこれね』

 ルチアは何も指さすことなく言いました。

『これ、とは?』

『だからこれよ。今私たちが使っているこれ。言葉よ』

『はあ』

『訳の分からなさそうな顔をしているわね。いい、言葉は人の文明最大の発明なの。人の歴史は言葉の歴史と言っていい程よ』

『そうなんですか?』

『ええ。私たちが目に見えないものや存在しないものを伝え合えるのも、言葉があるからでしょう。言葉がなければ集団で暮らしていくことだってままならない。言葉がなければ、人間と魔族が世界の覇を争って戦ったなんて夢のまた夢のような話よ』

『言われてみればそうかもしれませんが』

『人は言葉を介してしか物事を見ることができないの。だから人は何にでもいちいち名前を付けたがるでしょう? そしてそんなばかりに、人はいつまでも言葉を使いこなすことができないのよ』

『……というのは?』

『言った通りの意味よ。名前をつけなきゃいけないものを名付けずに見逃し、存在しないものに名前を付けてあるかのように錯覚する。あなたにだって身に覚えがあるんじゃないかしら。人は思ってもいないことを言ったり、逆に思っていることを言わなかったりするの』

『まあ、そういう時もあるでしょう』

『あってはならないのよ。本当は。ということが言葉の持っている最大の利点なのだから。ものをと言ってはいけないし、ものをと言ってはいけないの。そんなことをしたら、私たちは相手の言葉の一つ一つを疑ってかからなければならなくなる。私たちの会話はすべて、お互いにそういうことはしないっていう暗黙の了解の上に成り立っているのよ』

『言いたいことは分かりますけれど。でも状況次第じゃないですか。時には相手の言うことを言葉通りに受け取っちゃいけないことだってあるでしょう』

『ええ。私はそれを「使いこなせない」と言ったの』

『……はあ』

『こら、露骨に面倒くさそうな顔をしないの』

『すみません、つい』

『気にしてないわ。今あなたは面倒くさそうな顔をしたでしょう。でもそうとは口にしなかった。どうしてかしら?』

『どうしてと言われても……。やっぱり怒ってるじゃないですか。すみませんってば』

『だから怒ってないわよ。ほら、今もあなたは私が言った「気にしてない」という言葉を信じていない。それどころか事実は真逆だとさえ思ってる。それはどうしてかしら?』

『……私が言葉をちゃんと使いこなせていないからですか』

『その通り。なんだ、しっかり分かってるじゃない』

『分かることと納得することは別物です。結局ルチアは、私たちが内心と違うことを口にするのが気に入らないんでしょう。だったら回りくどいことしないで、最初からそう言えばいいじゃないですか』

『いいえ。違うわエリー、それも私は言ってないわ』

『言わなくても分かりますよ』

『本当に?』

『……………どういう意味です』

『私の言葉はあくまでも言葉の通りよ。あなたは言わなくても分かると言うけれど、言葉にしなくても通じると謳うけれど、それって本当なのかしら』

『……そういうことだってあると、思いますけれど』

 ルチアと喋っていると、いつも私はこんな風に言いくるめられてしまうのでした。心の中では詭弁だと思っても、その詭弁に対抗する術をもたない私には詮のないことです。

『そうね。そういうこともあるわ』

『え?』

『どうしたの、そんな目を丸くして』

『いえ……ちょっと予想外の答えだったので』

『勝手に予想して勝手に裏切られてるんじゃ世話ないわね』

『うぐ』

『まあでも、それこそが私の言いたかったことなの。思ったよりずいぶん回り道をしてしまったわ。回りくどいことをするな、というあなたの指摘は奇しくも当たっていたわけね』

『別に慰めてくれなくてもいいですよ。……それで、結局何が言いたかったんです』

『人間の恐るべき不思議な力のことよ。言葉は人の生み出した最高の発明でありながら、あなたたち人間はそれ以外の方法で分かり合うことができる。それって本当はすごく特別なことだって気付いている?』

『特別……?』

『そう。人間は互いにって信じているのよ。そうでなければ、言葉にされていない心を汲み取ったりすることなんてできないでしょう?』

『そう、でしょうか』

『そうなのよ。魔族は―――かつて人間とこの世界を二分した魔族という種族は、ひとりとして自分と同じ考えの者がいるとは信じていなかった。だから伝えたいことは全て正確に言葉にしなければいけなかったけれど、人間はそうではないでしょう。裏腹でちぐはぐな言葉から正しく思いを伝えることができる。分かってくれるはずだと信じることができる。それって実はすごく特別なことよ』


***


 なぜ今こんな何気ない日常会話を思い出したのか、私自身分かりません。

 ただ、私は勇み足気味に先を歩いてゆくルチアの背中に、言葉にならない思いを汲み取ったのです。それが自然と滲み出てしまったものなのか、あるいは私に悟らせようとわざと滲ませたものなのか。

 もし後者だったとするならば―――そしてルチアがあの日の会話を覚えているとするならば―――ルチアは私が「分かってくれるはずだと信じ」ているということになるのではないでしょうか。

「ルチ……」

「そうだわ。今日はどこに行くのか、言ってなかったわね」

 私が話しかけようとしたちょうどそのタイミングに、ルチアはこちらを振り返りました。

「? ごめんなさい、今何か言いかけたかしら」

「い、いえ何でも。それでどこへ向かっているんです」

「今日のはとっておきよ。あの大岩が見えるかしら」

 ルチアが指さしたのは、森の中にぽつりとある急峻な丘でした。

「風待ちの丘ですか。もちろん。昔上に登ったこともありますよ」

 村を抱く森林は果てしなく広い平地に広がっています。しかしその平野にはただ一つだけ、私たちが風待ちの丘と呼ぶ、地面の大きく盛り上がった隆起がありました。

 森を上空から見下ろすことのできるほぼ唯一の場所であり、村から行こうと思えば行ける距離にあることもあって、幼い頃の私たちにとっては絶好の遊び場だったように思います。

「行ったことがあったの。意外」

「そうですか? この辺りでは一番目立ちますし、意外なこともないと思いますが」

 とは言いましたが、風待ちの丘の上には常に不規則な強風が吹いていて、危険なので特段の理由がなければ立ち入ってはならないという村の不文律がありました。私も子供の頃に一度、父様に連れて行ってもらったきり訪れたことはありませんでした。

「それにしても、今日は遺跡探索ではないんですね?」

「まさか。もちろん遺跡探索よ」

 ルチアは自信満々に言いました。

「でも、あそこには別に遺跡のようなものはなかったと思いますが。それほど広くないので見逃すとも思えませんし」

「ふふ。大きなものほどかえって見えづらくなるものよ。エリー。あなたは私があれを『大岩』と呼んだのに気づいたかしら?」

 やや芝居がかった言い方で、ルチアは目いっぱい勿体つけて言いました。

 その語り口に少々の面倒くささを感じつつも、ルチアの様子がいつも通りであることに私はほっと安堵していました。

 やや間をおいて、ルチアは重大な秘密を打ち明けるように言います。

「あそこには遺跡がないと言ったわね。それはあくまでもの話よ」

「表面……ということは、まさか」

「そう、そのまさか」

 私はルチアの得意げな顔を見ました。

 どうやらルチアの想定通りのリアクションを取ってしまったことに悔しさを感じなくもありませんが、それ以上に、自分の盲点にショックを受けたのでした。

「遺跡はあの大岩の内部にあるのよ」

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