第25話 セシリエ
「あれ、まだ戻ってきてないみたいですね」
部屋のドアをくぐると、そこには誰もいませんでした。
「本当ですね」
ベッドの乱れ具合や椅子の位置、きちんと閉め切らずに隙間の開いた窓まで、そっくり私たちが出て行った時のままです。
ルチアに会うために部屋まで戻ってきたのですが、当てが外れたようです。
「どちらに行かれるとかは、聞いてらっしゃいませんか?」
「特には。何をしているのか分からないのはいつものことなので」
「確かに……」
「ま、そのうち帰ってくるでしょう。とりあえず待ちましょうか」
私は外套を雑に椅子の背もたれに放り投げ、ベッドに身を任せました。
恐らくあまり質がいいとは言えないであろうベッドは、それでも村の私のベッドに比べるとかなり綿が詰まっていて、柔らかく私の身体を包みます。その柔らかさが私は今一つ慣れませんでした。
「……ふふ」
ドアの横に立ったままのセシリエが控えめに笑いました。
行儀の悪さを笑われたのかと思い、そそくさと居ずまいを正すと、セシリエはさらに可笑しげに言いました。
「すみません。私のことはお気になさらず、どうぞくつろがれてください」
そうは言っても、セシリエが立っているのに私だけが寝転んでいるわけにもいきませんでした。
「お気遣いありがとうございます。……よければ、セシリエさんもこちらにどうぞ」
「えっ。あ、それではお言葉に甘えて……」
セシリエは椅子をベッドの脇まで寄せて、そこに座りました。
向かい合って目を合わせると、彼女は恥ずかしげにふいと目を逸らしました。
「本当に、今日はありがとうございました。色々と案内してもらって」
「いえ、むしろすみません。私のせいでエリーさんまで嫌な目に遭わせてしまって……」
「気にしてませんよ。それに、あれは別にセシリエさんのせいではないでしょう」
「いえ、まあ……私にも非がないとは、言えませんし……」
「?」
セシリエは言いにくそうに言葉を濁しましたが、正面にいる私が顔を覗き込むと、逃げ場がないようでした。
「その、えっと……。急にこんなことを言われると困らせてしまうかもしれないんですが」
「どうぞ、何でもお気軽に話してください。私のことは石ころだとでも思って」
「……お父さんの言ってたこと、分かるんです。私たちがこの町で生きるにはこうするしかないって。お父さんのしている仕事も、それを町のみんながどう思うかも、どうしようもないことなんだって、分かるんです。だから、お父さんの言う通り、諦めよう、我慢しようって思っているんですけど……」
「……はい」
セシリエの言葉に、私はただ頷きました。
彼女は勢いのまま喋り出してしまって、まだ整理がついていないようでした。いえ、もし整理をつけられるような感情ならば、彼女はこんなにも悲壮な顔をしてはいなかったでしょう。
「……すみません。何を言いたかったのか分からなくなっちゃいました。こんなんじゃ、本当に困らせてしまいますね」
その不器用な笑顔が何とかして作ったものであることくらいは、私にもわかりました。
「何でもと言ったのは私です。好きなだけ困らせてくれていいんですよ」
「……そんな風に言われると、私の方が困っちゃいます……」
「ではその困りごとを私に話してみましょうか。私ならばいい解決方法を知っているかもしれませんよ」
私がおどけてそう言うと、セシリエは頬を緩ませました。
「私には何でも話してくれていいんです。諦めて、我慢して、口をつぐんで……それでつらくなったら、私に全部ぶちまけてください。約束ですよ」
セシリエは驚いたような、当惑したような、どうともとれるような表情をして、しかし確かに頷きました。
「じゃ、じゃあ……一つお願いしたいことがあるんですけど……」
「はい。何でも言ってください」
セシリエはおずおずと、しかしどこか期待した顔で口を開きました。
「こうですか?」
「は、はいっ。そんな感じでお願いします」
彼女の注文通りに、私はベッドに深く腰を掛けて、足を開きます。その足の間に、セシリエの小さな身体がすっぽりと入り込み、まるで私が彼女を抱いているかのような体勢でした。
「……こんなのでいいんですか?」
「はい。ありがとうございます」
セシリエの初めてのお願いは、私が想像していたものとはだいぶ違いました。が、彼女が満足してくれるなら本来の目的は達成されていると言えましょう。
それに、私自身、セシリエとこうして触れ合っているのが心地よかったのでした。幼いころにカリーにこうやって食器の使い方を教えたのを思い出します。
「……………んっ」
「あっ、すみません。痛かったですか」
「いえ、びっくりしただけですから、……続けて、もらえますか」
私がついセシリエの頭を撫で、髪に手櫛を入れると、セシリエはねだるように頭を私に擦り付けてきました。
セシリエの細い髪は決して栄養状態がいいとは言えませんでしたが、手入れは丁寧にされているようで、手で簡単に梳かすだけでさらりと水のように流れました。
「どうでしょうか。実は人にするのは初めてでして」
「私も初めてです。すごくお上手ですよ」
「それはよかった」
そうしていると、腕の中のセシリエは次第に私に体重を預け、どんどん体の力が抜けていきます。すう、すう、と規則正しい呼吸のリズムが聞こえてきます。
まどろんでいるのでしょう。今日は色んなことがありましたし、疲れてしまっても無理ありません。
「眠るのならベッドまで運びましょうか」
「い、いえ。大丈夫……です……」
声を掛けたのは失敗だったようです。セシリエは目を擦って、姿勢を直しました。
「別にここで眠ってしまっても構いませんよ。ルチアには私から言っておきますから」
「そんなわけには……」
「疲れたのでしょう。お話の続きは明日にでも」
私が刺激しないよう穏やかに言うと、セシリエは再びうとうとし始めたようでした。
こうして見ると、年相応の無邪気な少女です。普段の彼女がいかに気を張っているかが分かるような気がしました。この時間が、彼女にとって安らぎとなればよいのですが。
「……どうしました。私はここにいますよ」
セシリエの手のひらが、私の太ももから腰、お腹へと、私の存在を確かめるかのように順にまさぐりました。少しくすぐったい感じがしましたが、極力身じろぎはしないようにしました。
セシリエは夢か現か、意識が眠りの淵に落ちようとする狭間で口を開きます。
「……私の生まれるまえ、お姉ちゃんがいたらしいんです」
「そうなんですか」
「もし……お姉ちゃんがいたら、こんな感じでしょうか……」
そこで、セシリエはついに眠りに落ちたようでした。
あどけなさにほんの少しの陰りを混ぜた、愁いを秘めた寝顔に、彼女のこれまでの生活がにじみ出ているような気がしました。
「……私も、もし妹がいたらこんな風だったのかと、思っていたところでしたよ」
私はセシリエの頭を撫で、しばらく腕に抱いたまま、彼女の寝息に耳を澄ませていました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます