第5話 お出かけ

 鋼鉄と鋼鉄を思い切り強く叩き合わせる音で、私は目が覚めました。

 いえ、実際に叩き合わせていたわけではありません。ただ私の頭の中には、そうとしか思われないような音ががんがんと鳴り響いていたのでした。

 耳鳴りと区別のつかない頭痛に顔をしかめながら、私は一番新しい記憶を思い起こしました。

「やっと起きたの? もう昼よ」

「……………眩しい」

「お昼だもの。それにしても昨夜のあなた、本当にひどい酔い方してたわよ」

 そうでした。思い出しました。

 昨晩はグズリ狩りの祝宴に合流して、勧められるままに杯を乾かし、弓矢談議に花を咲かせ、調子に乗って曲芸射撃を披露したりなんかして……、その先のことはあまり記憶が鮮明でありませんが、とにかく夜明けまで馬鹿騒ぎに興じていたのでした。

 今は自分のベッドに横になっていましたが、一体どうやって家に帰ったのかもわかりません。

「それより、起きたのなら少し付き合ってもらいたいのだけど、いいかしら」

「……ルチア!」

 私は跳ねるようにベッドから飛び起きました。

 いつも通りの私の部屋の中、うららかな日射しが差し込む日常の風景の中に、強烈な違和感を放つ人影が立っていました。

「急に大声出さないで。びっくりするわ」

「あ、ごめん」

「いいわ。目が覚めたのなら結構。少し外を案内してもらいたいのだけど、いいかしら。あなたも寝転んで一日を潰すつもりではないでしょ?」

 日に照らされ、丈長のクロークも脱ぎ去ったルチアは、昨晩の闇夜の中で見たのとは、かなり印象が違って見えました。

 愛らしさと麗しさを完全な調和のもとに備えた風姿や、どちらかというと小柄な体には似つかわしくないほどの荘厳な威容はそのままでしたが、全体的に柔らかく、手を伸ばせば触れられそうな親しみが感じられました。

「大丈夫? また呆けているみたいだけど」

 ルチアは近づいて、私の顔を覗き込みました。

 金色の瞳に視線が吸い寄せられて、二度と目が離せなくなってしまいそうな気がしました。

「だ、大丈夫。それで何でしたっけ」

「そうそう、ちょっと外を見て回ってみたくて、案内役を頼んでもいいかしら」

「外?」

「そう。ソフィーには話を通してあるわ。家の仕事はいいそうだから、あなたさえよければ、すぐにでも出かけたいところなのだけど」

「は、はい、いいですけど……」

 ルチアはすでに母様とすっかり打ち解けていたようです。

 有無を言わせないその勢いに押されて、私はベッドから起き上がりました。立ってすぐは視界がぐらつき足元もおぼつきませんでしたが、身体を伸ばして何度か深呼吸するとじきに慣れました。

「はい。暇だったから準備しておいたわ」

「ありがとうございます」

「それじゃ、私は先に外に出てるから。準備ができたら来て」

 蝶のように彼女が去っても、部屋にはどこか華やいだ空気の残り香が漂っていました。

 ルチアの指し示した机の上には、普段私が森に採集に出るときなどに使っている服や靴、帽子などの一式が揃っていて、昨晩使ったばかりの弓矢も置いてありました。

 雨ざらしの夜から手入れもせず、弦も張りっぱなしだというのに、ちゃんと使えそうでした。

 私は急に気分が暗くなりました。

「カリーになんて言おうかなぁ……」

 昨晩は興奮していて特に深く考えていませんでしたが、今になって、カリーの矢を勝手に使ってしまったことを後悔していたのです。

 矢はある程度使い回せますし、昨日の二本の矢も、きっと誰かが回収してあるでしょう。それは後で取りに行くとして、あの神経質なカリーが、新品のはずの矢の使った形跡やこびりついた血の色を見逃すとは思えませんでした。

 それに、父様だってなんて言うか分かりません。

 私は憂鬱な気分をぶら下げたまま、のろのろと着替えを済ませ、居間で本を読んでいた母様に挨拶だけして、ルチアの待っている庭先へと出ていきました。

「ずいぶんのんびりだったわね」

「まあ、気が重くて」

 私がことさら気だるげに言うと、ルチアは困ったように首をかしげました。

「……そんな風にアピールされると、私もちょっと気が引けてしまうわね」

「え? ……あっ。そういう意味じゃないんです」

 ルチアは、私が彼女と出かけることに気乗りしていないと思ったようでした。

 確かに彼女から見れば、そうとしか受け取れないでしょう。誤解を解くためにおおげさに元気よく身振りをしてみましたが、ルチアは憐れみのこもった目で私を見ました。

「別に構わないわ。流石に唐突だったとは思うし、昨晩は色々とあったようだし。また具合の良さそうな日に改めて声をかけるわ」

「いえ、いえ! 少し別のことを考えていただけですから」

「本当?」

「はい。何ならちょっと身体を動かしたい気分です。誘ってくださりありがとうございます」

「だったらよかった。森の中に少し気になる者があるのだけれど、ついてきてもらえるかしら」

「喜んで」

 ルチアが歩いてゆくのについて、私も歩きだしました。

 家から村の外へと向かう小道を抜け、砂利の多い坂道を下っていくと、だんだんと足元の草も生い茂り、やがて完全に道はなくなってしまいました。

 こうなるといよいよ帰り道を見失いやすくなります。

 迷わないようにするための対処法はいくつかあります。足跡を残すように木の幹や枝に印をつけていく方法。常に一定の方向に向かい続ける方法―――これには太陽などの方角を知る手段が必要になります―――そして最も簡単なのは、そのエリアをよく知る案内人をつけることです。

 ルチアはこの最も簡単な手段として、私を連れてきたのでした。

「それにしても晴れたわね。昨日までの土砂降りが嘘みたい」

 その選択は適切だったといわねばならないでしょう。この辺りならば私にとっては文字通り「裏庭」のようなものです。

「本当ですね。その分足元がぬかるんでますから、気を付けてください」

 何日も降り続いた雨で、地面はかなり緩くなっていました。

 この様子では、どこかで地すべりが起こってもおかしくないでしょう。村の近くには崖がありますが、大丈夫でしょうか。

 私の忠告に、ルチアは「はいはい」と気のない返事をして、ずんずんと先に進んでいきます。

 木々が茂らせる緑の葉の隙間から、光のカーテンが下りていました。すっかり見慣れたはずの森の中の風景が、なんだか不思議と新鮮で、みずみずしい輝きを湛えているように見えました。

「ねえ、エリー」

 少し先を歩くルチアが私を振り返りました。

「まだ目的地にはかかりそうだし、あなたについて質問してもいいかしら?」

「もちろん。何でも聞いてください」

「あら、今、何でもって言ったかしら。じゃあ遠慮はしなくて良さそうね」

「あはは、どうかお手柔らかに」

 ルチアが言うと、まるで冗談に聞こえないのが恐ろしいところです。

 それから彼女はその言に反して、ごくありふれた当たりさわりのない、いくつかの質問をして、私はそれに答えました。それは村の成り立ちのことだったり、私の生活のことだったり、森の生き物のことだったり……、特に脈絡といったものはないようでした。

 ルチアの質問には、私が答えられるものもあれば、答えられないものもありました。答えられない質問には、正直に分からないと答えるしかありません。その場合でも、ルチアは興味深そうにうんうんと頷いて聞いていて、質問の内容よりもむしろ、私がに関心があるようでした。

「なるほど、なるほど。面白いわ。ここまでやってきた甲斐があったというものね」

 ルチアは気分良さそうに言いました。

「そんなに面白いこともないと思いますが」

「謙遜することないわ。えてしてその渦中にいる人物ほど、その物事の興味深さや奇妙さに気付かないものよ」

「そういうものでしょうか」

「ええ。そういうものよ」

 彼女にそう言い切られれば、私には言い返すすべがありません。

 次々と投げかけられる問いに答えているうちに、私はまるで自分が観察されているような―――あるいは品定めされているような―――気分になってきて、言いようのない居心地の悪さを感じ始めていました。

「あ、少し待ってください」

 ちょうどその時、行く手にほんの一跨ぎ程度の小さな川がありました。

 森を流れる大きな川に流れ込む支流の一つでしょう。森の中にはこうした細い流れがいくつもあって、しかもそれが微妙に蛇行することで、非常に迷いやすい環境を作り出していました。

「ルチア、手を貸してください」

「何かしら……って、わっ」

 私はルチアの手を掴んで優しく引き寄せ、背中と膝を抱えるようにして持ち上げました。

 背丈や体つきからさほど重くはないだろうと思っていましたが、抱きかかえたルチアは羽根のように軽く、私の身体ごと軽くなったような錯覚さえ抱きました。

 腕や腰は今にも折れてしまいそうなほどです。どうやってこんな身体で過酷な旅をしてきたのでしょう。

「えっ、あの、一体何を」

 腕の中で慌てたようにじたばたしても、少しもバランスが崩れません。

 こうしてみるとルチアも、まだ小さな子供のようにも見えました。

「川を渡るときに滑ったりしたら危険ですから」

「そんな、子供じゃないんだから、一言注意してくれるだけで大丈夫よ」

「油断しちゃいけませんよ。それに、足元が濡れでもすると想像以上に体力を奪われます」

「それはあなただって同じでしょう」

「私の靴は防水ですし、慣れてますから。ほら、暴れると余計に危険ですよ。少しの間大人しくしていてください」

 私が川を渡り終えるまで、ルチアはしばし何も言わずに抱かれていました。

 対岸に彼女を下ろすとき、はためいた髪から花のようないい香りが漂ってきました。

「……まあ、一応お礼を言っておこうかしら」

 ぱんぱんと服の裾を払いながら、ルチアはためらいがちに言いました。

「構いませんよ。勝手にやったことですし」

「それは本当にね。大体、あんな小川にいちいち大げさよ。ここで転んで頭でも打つほどそそっかしいなら、とっくに井戸に頭から突っ込んで死んでるんじゃないかしら」

「あはは……」

 ルチアはぶつくさと文句を言いながら歩き出して、私もその横について歩きました。

 口ではなんだかんだと言いながら、その実まんざらでもなさそうに見えたのは、私の幸福な幻視でしょうか。そうかもしれません。

 ルチアはひとしきり文句を言い終わると、今度は急に黙りこくって、ただ森の中を迷いなく進んでいきました。

「ルチア。今度は私から質問してもいいですか」

「ええ、いいわよ」

 私が尋ねると、ルチアは存外にあっさりと頷きました。声の調子も、すっかり元通りのようです。

「ただし、私に答えられることならね」

 茶化すような声音でこんなことを言うくらいには、元通りでした。

 先ほどのことで機嫌を損ねたかとも思いましたが、そうでもないようなので、私は今朝からずっと気になっていたことを尋ねてみることにしました。

「じゃあ……、さっきから気になっていたんですけど、ルチア、昨日会った時と違いませんか?」

「違うって、何がかしら」

「えっと、こう、雰囲気というか。……感じというか」

 私は曖昧に言葉を濁しました。しかし、こんな問いでは伝えたいことも伝わらないでしょう。

 案の定、ルチアも困ったように苦笑しました。

「ずいぶん要領を得ないわね。流石に感覚的過ぎるというか、どう答えたらいいのかしら」

「あはは、そうですよね。えっと、……こんなことを言うと変に思われるかもしれないんですが、昨日会った時は、髪の色とか、目の色とかが違っていたような気がするんです」

「へえ。昨日の私は何色だったの?」

 ルチアは私の方を向き直って言いました。

 くすみのない綺麗な白銀の髪は糸のように微風になびき、日の光を集めたような金色の瞳は眩むほど澄みきっています。ほんの少し赤みがかった白い肌は、この世ならざる材質をこれまたこの世ならざる研磨剤で磨き上げたかのようでした。

「……黒です」

 目の前にいる光の少女に向かって、その色の名を言うことは罪深いことのような気がして、私は一言そう呟くのが限界でした。

 一方のルチアはそんなこと全く意に介した様子もなく、

「単に暗かったからでしょう。月明りもない夜だったんだもの。色なんて判断がつかなくて当然よ」

「そうですよね」

「そうよ。あなただって、昨日の夜はひどく陰気で根暗そうに見えたものだけど、今は全然そんな感じしないもの。人の感覚なんて当てにならないものだわ」

「そう、ですよね……」

 ルチアの言い分は非常にもっともで、異議の唱えようはありませんでした。私だって、他人事ならばそう答えたに違いありません。

 ただ、あの夜の彼女の、どんな色さえ呑み込んでしまいそうな黒い瞳と、どんな闇夜にも溶かされずにいた白い肌が、この目に焼き付いてどうしても消えてくれないのです。

「まあ、話の続きはあとにしましょう。そろそろ目的地に着くわ」

 ルチアは前方を指さしました。

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