第6話 遺跡調査
「そろそろ目的地に着くわ」
ルチアが目的地と呼んだそこは、何の変哲もない森の一地点のようでした。
強いて言えば、周りよりも木々の密度が高いぶん薄暗く、妙な寒々しさもあって、自分一人であれば足早に通り過ぎてしまいそうな場所でした。
「ここ、ですか?」
そんな風にただならぬ雰囲気は感じましたが、目に映るもの自体は、特段に変わったものも見当たりません。
訝るようにルチアの方を見ると、彼女は首を振りました。
「いえ、もうほんの少し向こう。その奥ね」
「この奥?」
「ええ、その茂みを抜けていった先よ」
ルチアは妙にこんもりと茂った草むらを指さしました。
その先、と彼女は言いましたが、ここから様子を見る限りでは鬱蒼とした深い森が続いているだけです。仮にその先に何かがあるとしても、まだかなり歩いて行かねばならないように思われました。
「あの」
「いいから、入って行って頂戴」
私が口を開こうとしたのを制し、ルチアはただ私に進むように促しました。
不承不承、それに従って草むらに足を一歩踏み入れると、その瞬間に私は背筋をぞくりと這うような悪寒に襲われました。
私は時折、なんら説明のできない、しかし途轍もなく抗いがたい力でもって私を突き動かす確信めいた考えを抱くことがありました。それは恐らく、森で生きる者であれば誰もが多かれ少なかれ持っているある種の察知能力なのですが、私の皮膚は人一倍そういったものに敏感だったようです。
「ルチア。すみません、私は行けそうにないです」
この時感じたそれは、今までかつてないほどの強度で私の足を縛りつけ、私はどうしても一歩も先に進めなくなってしまったのでした。
「何言ってるの。ほら。手を握っていてあげるから」
ルチアはそう言って、私の手をぎゅっと握りました。
そのまま、半ば彼女に引っ張られるように、私は茂みの中へと倒れ込むように突っ込んでいきます。
全身の内側をけば立ったブラシで撫でつけられるような感覚がしました。
あまりの異常感覚に、意識が飛びそうになりました。いや実際に飛んでいたのでしょう。
視界では星が瞬き、天と地は逆転し、全ての音と光が遠ざかって虚空の一点に収束していくようでした。手足は自分のものでなくなり、思考さえもが自我を遊離して空間に融けてしまうのではないかという気がしました。
「……リー、エリー!」
ルチアがそう呼ぶ声がなければ、あるいは私は永遠に、引き伸ばされた時間の隙間でさまよっていたのかもしれません。
「はっ」
「大丈夫? そんなにショックを受けるとは思わなかったわ」
「だ、大丈夫です。……多分」
「よかった」
「それより、ここは……?」
私は地面に倒れていました。
ついさっき私は確かに、下半身がすっかり隠れるほどの茂みに突っ込んだはずです。今はそんな形跡はどこにもなくて、辺りは開けて、短く刈り揃えられた芝生が広がっていました。
その中心に、見慣れない建造物がありました。
「ここが今日の目的地。数日前に見つけたのだけど、もう一度しっかりと調べてみたいと思っていたの」
ルチアは興奮気味に、その建物の方へと歩いて行きました。
私の身体はもう何ともなく、すっと立ち上がってルチアについて近づきます。
「この建物は、……なんです? 見たことがありませんが」
外壁に触れてみると、特に変哲もない石造りのようでした。
「そうみたいね。てっきりあなたたちが何か知っているのかと思ったのだけれど、外の結界はどうやらあなた達の仕業ではなかったようだし。むしろあれはエルフ対策なのかしら」
「結界? エルフ?」
次々と飛び出してくる奇異な単語に、私はただ素っ頓狂な調子で言葉を繰り返すことしかできませんでした。
ルチアはそんな私の様子を見て、やや面倒くさそうに言いました、
「エルフが世間知らずっていうのは本当のことみたいね。結界魔術はともかく、自分たちの種族名くらいは知っておいてもいいんじゃない?」
「ちょ、ちょっと待ってください。ルチア。色んなことが急に来て、整理が追い付いていません」
「いいわ。私もあなたには知る権利があると思うから。だからあなたをここまで連れてきたのよ」
待ってくれたのはいいものの、私は整理など付けられそうにありませんでした。
ルチアの言っていることも、今この身に起こっていることも、私には何一つ理解できなかったのです。かろうじて分かったのは、私は何も知らないということだけです。
私は目を閉じて、大きく息を吸い込みました。
降り注ぐ日の光と、肌を転がるように吹き抜ける風の涼しさ、そして土と水の染みた森の匂いはいつも通りで、私はようやく平常心を取り戻しました。
「落ち着いた?」
ルチアは近くの大きな石に腰をかけて、私を見ていました。
「すみません。ご迷惑おかけしました」
「まあ、仕方がないわよ。私も配慮が足りていなかったわ」
ルチアは言葉と裏腹に、全く悪びれていないようでした。
「まさかここまで予備知識がないとは思っていなかったから。そうだと知っていたらもっと違ったやり方があったのに。本当よ、信じて頂戴?」
「まだ、信じてますよ」
私はそう強がって言うのが精一杯でした。
こんな状況で、彼女に対する不信感が全くなかったというわけにはいきません。しかし、もしルチアに明確な敵意があったなら、私はきっとこんなものでは済んでいなかったはずです。
「十分よ。それじゃあ、最初から話しましょうか。ここがどこなのか、あなたがどうして倒れたのか。そして私がここに来た理由を」
ルチアが改まった態度で言いました。
これからのためにとても重要な話になるでしょう。私は居ずまいを正して彼女と向かい合いました。
「この建造物、いえこの空間は、いつ造られたかも誰が造ったのかも分からない謎の遺構―――私が『前史遺跡』と呼んでいるものよ。私は各地に点在する前史遺跡を調べて回っているの」
「……すみません、初っ端からよく分からないのですが」
正直に所感を述べると、ルチアは露骨に呆れたような顔をしました。
「まだ理解に苦しむようなポイントはないと思うけど。こんな調子じゃ先が思いやられるわよ」
「すみません。その、前史遺跡? というのは、いつからあるのかも分からないし、誰が造ったのかも分からない、んですよね」
「ええ」
「それはつまり、何も分からないということですか?」
であれば、私が何も分からないのも、仕方がないということになるでしょうか。
そんな淡い期待を抱いて尋ねましたが、ルチアはふるふると首を振りました。
「分からないことが多いのは確かよ。でも分かっていることもある。まず一つは、前史遺跡はすべて大戦前か、少なくとも大戦中に造られたものだということ」
「大戦?」
ルチアは辟易したような顔をしました。
「人類と魔族とが世界の覇を競って戦った、いわゆる世界戦争。流石に聞いたことくらいはあるわよね……って、初めて聞いたって顔をしてるわね」
「……すみません」
ルチアは肩をすくめて、溜息をつきました。
外の世界ではよほど常識なのでしょうか。とはいえそんなこと言われても、聞いたことがないのですからしようがありません。
「最初から説明する、という発言を早々に撤回することになって申し訳ないけれど、そこまで遡って話していると日が暮れてしまうわ。とりあえず、今は遠い昔にそういう出来事があったとだけ思っておいて」
こめかみを抑えながら、ルチアは苦々しく言いました。
「はい」
「それじゃ遺跡の話に戻るわね。大戦の頃までに造られたこうした遺跡は、ほとんどが崩れたり壊されたりして残ってないわ。数少ない残存する遺跡も、今となっては造られた当時のことが分からなくなっているものが多いの」
「そんなに昔のことなんですか?」
「ええ。少なくとも、人間で言えば数十世代は前の話ね」
「数十……?」
世代というのは親から子へと移りかわる単位のはずです。
二世代前のこともろくに知らない私たちには、数十世代も前のことだと言われても、現実の話だとさえ思えませんでした。
私はすぐそばに物言わず佇んでいる石造りの建物を見やりました。
「これが、何十世代も前から、ここにあったってことですか」
「そうよ」
「全然知りませんでした。こんなところにあれば誰か知っててもおかしくないのに」
「問題はそこね。ついさっきあなたが通って卒倒したあの境界線、あそこには外側からの侵入を阻む結界が張られていたの。それも、私には何もせず、あなただけを強く弾く特別な結界が」
ルチアは木々が密に集まった方を指さしました。
あの時の身の毛もよだつような感覚を思い出して、私は全身に嫌な汗が噴き出るの感じました。今も、あの暗い森の奥を直視していると、どうしてか胸が苦しくなるのです。
「あれは、……もういいでしょう」
「いえ、これは大事なことよ。とってもね。私は前史遺跡のことを調べているって言ったでしょ」
「そうでしょうか」
「もちろん。何なら、もう一度結界をくぐって反応を詳しく見たいくらいなのだけど」
「勘弁してください」
弱っている相手に追い打ちをかけるのは狩りの基本ですが、まさか自分がかけられる側になるとは思ってもいませんでした。
「それでその、結界っていうのは何なんですか」
「結界は魔術の一種よ。定義面を実体として、通過するものに非特異な作用を及ぼす駆動型の魔術ね」
「……………?」
私にはルチアの言っていることの一割も理解できませんでした。
「でもここの結界は興味深いわ。結界に限らず、設置式の魔術は原理的に術式の複雑さと有効時間がトレードオフになっていて―――」
それからルチアは、この場所に使われる「魔術」がいかに特殊で特別かということを、いくつかの事例を引き合いに出しながら説明しました。
その説明が正確を期すために十分な注意が払われていたことは分かりましたし、私のためにかなりの部分噛み砕かれていることも何となく察せました。しかし残念なことに少しも理解できませんでした。
「―――つまりよ、これはあなたたちを弾くためだけに設置された結界である可能性が高いの」
「……なるほど?」
「その返事は、ここまでの話を理解している前提で話を進めてもいいという意味かしら?」
「すみません。ちんぷんかんぷんです」
「最初から正直にそう言いなさいな。まあ構わないわ、今はそこは本題じゃないから。あなたが倒れたのはここを守るように張られた結界のせいだった。それだけで十分よ」
「な、なるほど」
私が頷いたのは、ルチアの言っていることに納得したからではなく、頷かなければ話が進まないと思ったからです。
ルチアは大儀そうに、立ち上がって石造りの建物の方へ歩いて行きました。
「そろそろ体の調子は大丈夫かしら?」
「あ、はい。おかげさまで」
「それは結構。それじゃ、中に入ってみましょうか。いつまでもガワばかり眺めていても飽きてきてしまうしね」
そう言って、ルチアは建物の側面に空いた穴から中へと入って行きます。
建物なのですから、外側よりもむしろ内部の方が重要なのは当たり前です。そんな当たり前のことを、私はルチアに言われるまですっかり失念していました。
「待ってください、ルチア」
もとは木製の扉があったのではないかと推察される大きな穴をくぐると、内部は一つの大きな部屋が建物の面積のほとんどを占めていました。
いったい何のための部屋なのでしょう。妙にだだっ広い空間には特にこれといったものはなく、ただ石畳を張って屋根をかぶせただけといった印象を抱きました。
一つだけ目を引くものがあるとしたら、それは部屋の奥にある、これまたやけに大きな階段でした。
「ルチア。どうですか」
私には特に面白いところもないような場所ですが、数々の遺跡を見てきたルチアにはまた違った視点があるかもしれません。
「今のところは見るべきところはないかしら」
私のものを見る目も、案外捨てたものではなかったようです。
「とりあえず階段を下りてみないことには何とも言えないわ。……それにしても、思ったよりも深いわね」
大階段は地中深くへと潜るように伸びていました。
階段の縁に立って見下ろしてみると、石段はどこまでも続いているように見えました。段数が多いというのもありますが、入ってくる光が少ないのが大きかったでしょう。私も夜目には少々自信があったのですが、それでも底までは見通せませんでした。
「下りてみましょう」
私が二の足を踏んでいると、ルチアは軽い足取りで降りていきました。
「ちょっと待ってください」
「なあに? 気になるものでもあった?」
「いえそうではなく……、危険では」
「危険って?」
「それは、その、崩落とか、足を踏み外したりとか。あとは……何かいるかもしれませんし」
私はしどろもどろに言いました。
長く風霜に耐え忍んできた遺跡は全体として非常に丈夫で、大階段はその中でも特に堅牢な造りをしていました。今さら崩落の心配など無用でしょう。こんな古い遺跡の光届かぬ地下に「何か」がいるなどというのはほとんど妄言です。
かろうじて、暗すぎて足を踏み外しかねない、というのは妥当な危惧と言えたでしょうか。
「要するに、暗いのがいけないのね。じゃあこれでどうかしら」
ルチアがそう言うと、暗闇の中にぼうっと光が灯りました。
蛍のようなか細くも確かな燐光がどこから生じてきているのかと見まわしましたが、携行ライトの類はなく、どうやらルチアの身体そのものが淡く発光しているようでした。
「それも魔術……ですか」
「そう思っておいてもらって構わないわ。さ、解決したのなら進むわよ」
ルチアの光で辺りが見えるようになっても、なお大階段の底は深い闇に包まれていました。
得体のしれない場所に足を踏み入れることへの抵抗感は、光源であるルチアがずんずんと先へ進んでいくことで否応なくかき消されて、私も階段を下りていきました。
緊張に高鳴る胸の奥に、弱い、しかし確かな好奇心の熱が宿るのを、私はまだ自覚していませんでした。
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