第4話 邂逅
天啓のような直感によって矢の命中を確信した私は、思考を挟まず、次の瞬間にはもう一本の矢をつがえて、弓を引き絞っていました。
倒れ伏したグズリの体躯は思ったよりも小さく、もう微動だにもする様子はありませんでした。毛に覆われた身体からは何本か矢が生えていて、しかしそれらはどれも肩や腹などで、致命傷となる傷ではなさそうでした。
念のため、心臓も射っておいた方がいいでしょう。
指を離すと、ほぼ同時に、ドッと鈍い音がしました。
張り詰めた弓の振動、その残響が身体を通りぬけて次第に大地へと抜けていっても、じんじんと熱く火照ったままの身体は一向に冷めやらず、私は雨を浴びるためにフードを脱ぎました。
「エリー!」
足を掛けた枝の下から、ウェルナーさんが私を呼びました。
気付くと、すでにグズリの屍体の周りには討伐隊のメンバーが群がっていて、それぞれ思い思いに勝利の味を噛みしめているようでした。
「ウェルナーさん。やりましたね」
私はできる限り平静を装って返しました。
一方、ウェルナーさんの方は興奮を隠そうとする素振りもなく、大げさな身振りで喜びを表して、私に木から下りてくるように促しています。
「ああ、僕らの勝ちだ。さあ。帰って祝勝の宴を挙げよう。今日の主役は他でもない、君だよ」
できることなら、今すぐ飛び降りて彼と抱擁を交わしたいと思いました。ウェルナーさんだけじゃなく、他の討伐隊のみんなとも、汗と泥にまみれた身体を抱きしめて歓喜を分かち合いたい気分でした。
「……すみません、緊張が解けたせいか、ちょっと腰が抜けてしまって」
「無理もないさ。よければ手を貸そうか」
「いえ大丈夫です。少し休んでからすぐに追いつきますから、先に戻っていてください」
「分かった。気を付けるんだよ」
いつものウェルナーさんだったら、たとえ私が何と言ったとしても、決して私を森に置いて行きはしなかったでしょう。
森では何が起こるか分かりません。それこそグズリのような危険な生物に出くわさないとも限らず、ましてや雨夜となると方向感覚を失い、道に迷う危険も少なくありませんでした。
そうしたことが頭から抜けてしまうほど、ウェルナーさんも興奮していたということでしょうか。
「ふぅ……」
私自身、そうだったのですから他人を責められる筋合いはありませんでした。
いつになく目が冴えています。眠気を感じないという意味であると同時に、文字通り、月もない夜とは思えないくらいに視野が利いていました。一瞬のために研ぎ澄まされた神経が、未だその用を終えたことをに気付かずに、なお貪欲に獲物を探し続けているようでした。
―――どうして腰が抜けたなどという嘘をついたんだろう。
私は自分に問いかけました。
あんなにも現実を無視した嘘が滑らかに口から出てきたことは、自分でも驚きでした。四肢は力が抜けるどころかこれでもかと漲っていて、ひとりでに動き出そうとするのを抑えておくのに難儀するほどでした。
―――いや、実際にこの腕を抑えつけていたんだ。
答えもまたびっくりするほどすぐに出てきて、しかも全く信じられないのでした。
ウェルナーさんに呼びかけられたとき、私は私の腕が勝手に弓を構えようとするのを感じたのです。
既に死んだグズリに対して二発目の矢を向けたときと全く同じ動作で、私はウェルナーさんに弓を引こうとしたのです。それを防げたのは、たまたま私の手元に三本目の矢がなかったからで、理性のブレーキは数瞬も遅れて働いたに過ぎず、十分な矢の予備があったらどうなっていたか分かりませんでした。。
それが恐ろしくなったのなら、どれほどよかったでしょう。
身体が求めるままに誰かを射ってしまうのが怖くて、一人になれる場所を求めていたのなら、今の私はどれほど安堵したことでしょう。混乱の静まった森の中には動くものは私のほかになく、したがって悲劇的な出来事が起こる可能性は限りなく低いと思われました。
しかし現実は違いました。私は今、そばに動くものがないことに、言いようのない淋しさとやるせなさを感じていたのです。
「……父様、母様」
私は二人の顔を思い浮かべました。
想像の中の二人は温かい光に包まれ、いつものように愛しさと慈しみに満ちた表情を浮かべていました。
「あなたの娘は、こんなに……―――」
「ねえってば」
静かな森に、静かな声が響きました。
ふと下に目をやると、人が立っているのが見えました。
「私の声、聞こえてる?」
「あっ、はい。すみません。聞こえてます」
「よかった。無視されているのかと思っちゃったわ」
灰色の丈の長いクロークを着て、つば広の帽子をかぶったその人は、私の返答したのを見てにっこりと微笑みました。
肩で切りそろえた髪は夜の闇を溶かし込んだように黒く、雪のような白い肌だけが浮かび上がって見えました。
「道に迷ってしまったのだけれど、この近くで休めるところを知っていたら教えてもらえないかしら」
その人は旅人か何かのようでした。
身に纏った装いは見たことのないものでしたし、言葉のイントネーションもどことなく変わっていました。それに森の村落は私たちの村しかありませんでしたが、村民であれば、私は顔に見覚えくらいあるはずです。
「それでしたら、近くに私たちの村があります。ご案内しましょうか」
「あら、助かるわ」
枝の上から降りてその人の前に立つと、その人は私の前に立っていました。
遠目には判別がつきませんでしたが、間近で見るとはっきりと女性であると分かりました。
幼さの残る顔つきは、しかし老人のように落ち着き払って取り乱したところがなく、その夜の闇よりなお黒い二つの瞳は、この世界の見えない何かを見ているようでした。
「こちらです。足元にお気をつけて」
「ありがとう。大丈夫よ」
その人は私の横を歩きました。
やはり旅人なのでしょう、よほど山野を歩き慣れているのか、落ち葉や枯れ木の散らばる森の中でも足音はほとんど聞こえず、目を閉じればそこにいるのかすらあやふやなほどでした。
しかし大きな荷物は一つもなく、体を覆うクロークの中以外には何も持っていないようでした。遠出をするときにはいかに荷持を減らすかも大切な心得の一つだ、といつか父様が言っていたのを思い出しました。
「ルチア」
「はい?」
「私の名前。ルチアよ。あなたは?」
自己紹介はすべての始まりですから、大切にしなければなりません。それにしても唐突だとは思いました。
「ああ、すみません。エリーです」
「エリー。これからどうかよろしくね」
彼女はまるで、私たちの関係がこれからもずっと続くことを確信しているかのような口ぶりでした。
結局、空気としか言いようがないでしょう。衣装でも言葉でも顔つきでもなくて、その身に纏った雰囲気が、私たちのそれとは明らかに違っていました。たとえ彼女が私の隣の家に生まれても、きっとこの空気は少しも損なわれなかった、そんな気がしました。
「あの、ルチアさんは、旅の方ですか?」
人と一緒にいると何かしら喋らなくては気が済まないのは、私の生来の悪癖でした。
「ルチアでいいわ」
「え?」
「ルチアでいいわよ。堅苦しいのは苦手なの。私もエリーって呼ぶから、あなたもルチアって呼んで」
「あ……はい。じゃあ、……ルチア」
「なあに?」
私がやや照れながら言うと、ルチアは満足げに笑いました。
絵に描いたように整った顔は、綻ばせてもその美しさを失うことなく、むしろ芸術的な輝きを増すようにさえ感じられました。
「ルチアは旅の方なんですか?」
「……まあいいわ。ええ、そんなところよ」
ルチアはまだ少し何か言いたげでしたが、諦めたように頷いて答えました。
「やっぱり。どちらへ向かっているんです?」
「特にあてもなく」
「え?」
「風の吹く方向、とでもいえば少しは格好つくかしら。まあ、ないものをあるように取り繕ったところで意味ないわよね」
「はあ……。では故郷は」
「故郷はもうないわ」
ルチアがあまりに何でもないことのように言うので、私はしばらく反応が遅れました。
「えと……、あの、ごめんなさい」
「あら、どうして謝るの?」
「だって、こう、……不躾なことを聞いてしまって」
「別に私はそう思わないけれど。私が何て答えるかは、あなたにとって予想できなかったことでしょう? それとも、私の触れたくない過去を詮索して暴いてやろうっていう心算でもあった?」
「まさか!」
強く息巻いて否定すると、ルチアはまた笑みを浮かべて私を見ました。
今度の笑みは神々しい美しさというよりも、妖艶な妖しさがありました。そのまま見つめていたら心ごと吸い込まれてしまいそうな、甘やかな笑みです。
「自分に非がないのなら、そう安々と頭を下げるべきじゃないわ。エリー。あなたの謝罪はそんなに安いものではないでしょう?」
ルチアの言葉には、父様とはまた違った言霊が宿っていました。
彼女がそう言えば黒さえ白になるような、彼女が笑んで一言言うだけで何もかも許してあげられるような、何もかも許されるような気がしたのでした。
「エリーは何を考えていたの?」
言葉を失っている私に、ルチアが問いかけました。
「次は私の番。さっき、難しい顔をして考え込んでいたみたいだけど、何を考えていたの?」
「ん……別に大したことじゃないですよ」
「そう言われたら余計に気になるじゃない。どうせしばらく暇なんだから、聞かせてよ」
私はふと思いました。
ルチアはいつからあそこに立っていたのでしょう。彼女は私のしたことを、どこまで見ていたのでしょう。
「そんなことより、そろそろ村に着きますよ」
木立の向こうに、村で一番端にある家が見えてきました。
村は森の中に散らばるように家々が立っていて、どの家も互いの家を見られないようになっています。具体的な大きさは測ったことがないので分かりませんが、端っこと反対側の端っことではちょっとした距離でした。
私の家はどちらかというと中心に近いところにあって、しかし周りには林しかないのであまりそんな気もしないのでした。
「変わってるのね」
そう説明すると、ルチアがぼそりと言いました。
「そうですか?」
「ええ。今までそう思ったことはない?」
「私は生まれてからこの森を出たことがないので」
そう口にすると、私は急に、自分がひどく矮小な存在であるような気がしてきました。
実際にそうだったのでしょう。比喩ではなく文字通りの意味で、この森は私にとって世界の全てだったのです。ルチアが見聞きしてきた漫々たる世界に比べて、私の世界はあまりに狭すぎました。
ルチアの方はというと、そんなことは気にもかけていない様子で、それがさらに度量の違いを見せつけられているようでした。
「色々と都合があるのでしょうけどね。普通はもっとひっそりと身を寄せ合うように暮らすものよ。こういう僻地の村っていうのは」
「僻地の……村……」
「あ、ごめんなさい。そういうつもりで言ったんじゃないのよ」
「大丈夫です、分かってますから」
「そんな拗ねないで。こういう自然の中の村は、って言いたかったの」
ルチアの言葉は慰めにしか聞こえませんでした。
しかし、その慰めには言い訳のような軽薄さはなく、すんと私の胸に落ちていくのでした。
だんだんと村の中心部に近づいてきて、私の家ももうすぐというところです。木々の間を縫ってのびる獣道には車輪のあとが伴うようになり、分かれ道ごとに行き先を示す木札が立っていました。
「なんだか向こうの方が騒がしいけれど」
私の家が近くなってきたころ、林の向こう側から何かを言い交わすような声が響いてきました。広場ではグズリ狩りの祝宴が盛り上がっているようです。
「今日はちょっとしたお祭り騒ぎなんです。まあ、あまり近寄らない方がいいと思います」
祭事の類がほとんどないこの村では、こういうことでもなければ夜遅くまで騒ぐ機会がありません。その反動か、いったん宴会が開かれると大抵の場合ひどい盛り上がりを見せ、夜明けごろには死屍累々の有様になるのでした。
「いいじゃない、楽しそう。ちょっと覗いてみたいわ」
「あっ、ちょっと!」
「エリーも一緒に行きましょ。私が急に出ていったら、みんなびっくりしちゃうわ」
私が止めるのも聞かず、ルチアは私の手を引いて広場へと小走りで駆けていきました。
実は私の方も、さほど抵抗するつもりはなかったのでした。
というのも、村には、宴の酒を口にできるのはその出来事に直接関わった者だけ、という不文律があったのです。
今回のようなケースで言えば、実際に狩りに協力した者がそれにあたります。普段ならば女の私にお呼びはかかりませんが、今回私は討伐隊の一員として働いて、したがって当然、宴会に参加する権利もあるはずでした。
「しょうがないですね、少しだけ、あいさつだけですよ」
ウェルナーさんの言葉を信じるなら、みんな私のことを待っているでしょう。こんな日に飲んで踊って騒がない手はありません。
いつの間にか、雨は気にならないほどの小降りになっていました。
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