第3話 要撃

 息を殺して獲物を待つのは、恋をするのと似ています。


 耳を澄ますと、遠くに討伐隊の男たちが盛んに何かを言い交わす怒号のような声が聞こえました。

 しかしそんな狂騒も、雨のカーテンに遮られて、どこか他人事のようです。

 聞こえてくる声の方向は少しずつ東の方へと移動していて、獲物の追い込みが予定通りに進んでいることが分かりました。


 恋をすると、どんな些細で何の変哲もない出来事にさえ、決して見逃せない特別な意味があるような気がするものです。

 オークの枝からひときわ大きな葉っぱが自然に落ちたのを見ても、何か不思議な予兆ではないかという気がしてならないのです。

 雨粒が偶然に鼻先のてっぺんを打ったことが、今日の行く末を決定的に左右するのではないかと思えてしまうのです。

 頬を撫でるかすかな微風が、どこかで重大なことが起こっていると私に知らせるために吹いているように感じられて仕方がないのです。


 そうやって絶えず次々と浮かんでくる啓示の泡沫を、芯まで冷えきった頭で一つ一つ潰しながら、私はを待っていました。

 早くしろと急かす指先をなだめすかすように、弓の表面を撫でます。

 丁寧に脂をひいた弓は水を弾き、弦を爪で弾くとハープのように軽やかな音を立てました。矢は外套の中で静かに出番を待っています。弓のグリップは今日初めて握ったとは思えないほどしっくりと手のひらに馴染み、重さは全く気になりませんでした。


 獲物はまさに恋をかける憧れの相手のようです。

 その姿を捉えるために一両日中薄暗い森の中を駆けめぐることさえ厭わず、

 その足跡を巧妙に隠された中に見つけると胸がざわめき、

 その視線が交差するときにはもう決着はついているのです。


 さて、では最愛のあの方のことを考えましょう。バートヘン―――名前で呼ぶのはよしましょう、感傷的になりかねない要素は排除するべきです―――問題のグズリは、予想通りうまく追っ手から逃げ延びているようでした。

 奴が一筋縄でいかないことはみな承知で、討伐隊の立てた作戦は最悪のケースとして、明日の日暮れまでの長期戦を想定していました。

 しかし恐らくはそこまではかからないでしょう。その証拠に、こんな大雨の中でもぬかるみの表面にはっきりと足跡が残っていました。

 グズリは非常に警戒心の強い生き物です。

 臆病と言った方が適切かと思われるその徹底ぶりは、遁世者もかくやというほどで、決して見知らぬ土地には足を踏み入れず、いつもと違う場所にある餌は口にせず、色や匂いのついた水は飲みませんでした。

 常に足跡を巧妙に隠しながら走り、狩人の歩いた道を目ざとく見つけ、陽動と隠密によってたくみに追跡者を撒く―――あるいは襲うのだそうです。

 グズリを狩る難しさの半分は、獲物を射程に収めることにあるとさえ言われていました。

 しかし、それらは十分に経験を積み技術を培った成体のグズリの場合の話です。そうした妙味を発揮するには、件のグズリはあまりに幼いようでした。

 ウェルナーさんたちから聞いたところでは、奴は安全に逃げることができる場面でも逃走を選ばず、むしろ狩人に対する敵愾心をむき出しにしているそうです。若さゆえの向こう見ずさと、生々しい憎しみの記憶とが、奴をこの死地へと駆り立てたのでしょう。


 恋とは求める気持ちです。

 今手元にないものを何としても手に入れなければという気持ち、そうでなければ生きている甲斐がないという気持ち。

 そのためならば、今この瞬間の自分自身をそっくりそのままあげてしまっても構わないと思う気持ちです。

 永劫満たされることのない底抜けの所有欲かと思われるそれも、いったん求めるものが手に入りさえすれば、まるで春先の雪のように跡形もなく消えていくのでしょう。

 そして最後には、どうしてこんなものが欲しかったのかと不思議な気持ちになりさえするのです。


 木立の隙間から、チカチカと瞬く光が見えました。

 合図です。

 明滅する光は赤色で、打ち合わせたポイントに変更なし、の意でした。私は姿勢を整え、フードを深く被り直し、弓に一本目の矢をつがえました。

 私に与えられた役割はたった一つ、追い込みルート上のポイントで樹上に待ち伏せ、獲物を狙い射つこと。

 集団での狩りにおいて、最も安全なポジションにして、最も射手としての腕を求められる役割でした。

 グズリの走るスピードと見通しの悪さから考えて、チャンスは一射、運よく怯んでくれれば二射というところでしょうか。私の前にもいくつものポイントで腕に覚えのある射手が要撃を試みたはずですが、私に手番が回ってきたということは、それらが悉く失敗したということを意味していました。

 深く深呼吸をして、あと幾ばくもなく姿を見せるだろう獣の気配を感じました。

 グズリは大きな体躯に、驚異的な頑健さを備えています。恐らく他の射手の矢もすでに何本か命中してはいるでしょう。さらにしかし確実に仕留めるためには、頭を射ち抜かねばなりません。

 雨に煙る視界の中、夜の森を疾走する野獣の頭部を射る。

 言葉にすればそれだけですが、文字通り、針に糸を通すような作業でした。


 恋の最高潮とは、叶うか、あるいは破れるか、その審判の瞬間です。

 その瞬間にはもう手の打ちようはなく、天に祈る言葉さえなく、ただそれまでの献身と研鑽がいかなる形に結実するのか、唯々諾々と自らの運命を受け入れることしかできません。

 それゆえにその瞬間は恐ろしいのです。

 もし残酷な結果が下されれば、もはや誰も正気を保っていることはできないでしょう。喜ばしい結末の向こうにある栄光が輝かしいほどに、その裏側にある悲嘆は色を濃くするのです。

 最上の喜びか、最大の嘆きか。

 その瞬間を恐れぬ者など、恋を知る者にはひとりもいないでしょう。


 驚くほど軽い音がして、矢は完全な直線を描いて飛翔しました。

 雨音と地響きのような足音をかき消して、矢羽根が風を切り裂く音が光のように空間を裂いて飛んでいきます。まるであらかじめ決められていたよう、それがあるべき必然の摂理であるかのようでした。

 私の指先が放った一矢は、過たずグズリの脳幹を貫き、グズリが力を失って地面に倒れ伏す音が響きました。


 私は、恋のことなど、何一つ知らなかったのです。

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