第2話 雨夜の客

 その数日後の夜のことでした。相変わらず雨脚は弱まることを知らず、遠くで雷鳴の轟く音が聞こえました。

 そろそろ降りやんでくれないと、川が増水して一帯が水浸しにならないとも限りませんし、我が家の裏のささやかな菜園もだめになってしまうかもしれません。なかなか外に出かけられない退屈さもあいまって、私は少しずつ辟易し始めていました。

 明日こそきっと晴れ間がのぞいてくれるに違いない、と希望を抱いて寝床に入った私の耳に、戸を叩く音が聞こえました。

「アルフレッド、アルフレッドはいるかい」

 父様の名を呼ぶその声には、聞き覚えがありました。

 玄関に一番近いのはカリーの部屋でしたが、その日出られるのは私だけだったので、寝巻きのまま戸口に立ちました。

「ウェルナーさん。こんばんは」

「エリー。こんばんは。すまない、こんな夜更けに」

 ウェルナーさんは父様の昔からの友達で、いつも何が楽しいのだろうと思うほど穏やかな笑顔を浮かべている方でした。

 しかし今のウェルナーさんは笑みもなく、荒い息を切れ切れに、ひどく焦っているようです。

「構いませんけれど、一体どうしたんです。何かあったんですか」

「それが急ぎの用があって……ああ、時間が惜しい。すまない、とりあえずアルフレッドを呼んでもらえないか」

 ウェルナーさんは傘を差さず、代わりに頭からかぶって身に着ける雨除けを着ていました。それでさえフードの中の短い髪の先までびっしょり濡れていて、ここまでなりふり構わずに走ってきたことが分かりました。

「父様とカリーは外へ出ていて、明後日まで戻りませんけれど」

「ああ、そうだ、そうだった!」

 ウェルナーさんは大げさに天を仰ぎました。

 村の中では手に入らないものを買い付けるために、たまに外の町へ出なければいけませんでした。しかし森を抜けるのにもそれなりに時間がかかりますから、行くときには泊りがけにして、色んな用事を一時に片づけてくるのが通常でした。

 折悪く、その日はちょうど父様がカリーと一緒に出掛けていった日だったのです。

 数日の間村を離れることは長老会を通じて他の村民にも伝わっていたはずですが、ウェルナーさんは急ぐあまり失念していたのでしょう。

「あの、事情をお聞きしてもいいですか。どうしても急ぎでしたら、伝書を飛ばしてもいいですし」

「申し出はありがたいけれど、流石にこの雨では伝書は……。……いや」

 伝書とは簡単な手紙を鳥に運ばせる連絡手段です。多少の雨ならば無理をおして飛ばすこともありましたが、これほどの大雨では無謀でした。

 ウェルナーさんは口元を手で覆って何やらしばらく考え込んでいました。

 それから、なお躊躇をぬぐい切れない様子で、やがて決心したように、

「もしよければ、少し話を聞いてもらってもいいだろうか」

「はい。中にどうぞ」

「失礼する。床が濡れてしまって申し訳ないが……」

 ウェルナーさんはドアをくぐる前に雨除けを脱ぎましたが、やはり中の服まで水を被ったように濡れています。

 さらに走ってきて身体が温まっていたのでしょう、むわりと肌にまとわりつくようなぬるい湿気を全身から発散していました。

 居間がびしょ濡れになっても困るので、とりあえず台所の椅子へと通しました。

「何か飲まれますか」

「気持ちだけ受け取っておくよ。あまりゆっくりできる気分でもなくて」

「では母様を起こしてまいりますので、もうしばらくお待ちください」

 父様がいない間、何かあったときに代わって対応するのは母様です。

 母様は病弱で、この時間には既に眠っているはずですが、よほど危急の事態のようですし、母様に聞いてもらわないわけにはいかないでしょう。

「いや、その必要はない」

 立ち去ろうとした私をウェルナーさんが引き留めました。

「え、でもお話を聞くのでは」

「話を聞いてもらいたいのは、エリー。君だ」

 一瞬ふざけているのかとも思いましたが、私を見据えるウェルナーさんの目は真剣そのもので、すぐに思い直しました。

「もちろん君が必要なら、ソフィーさんを呼んでもらっても構わない。いや、本当はそうするのが本統なのだろうけれど……。とにかく、僕が話があるのは君なんだ」

「……分かりました」

 はっきりせず言い淀むウェルナーさんの様子から、私は戻って彼の前に座りました。

 こんな風に私に相談事があるなんて、まず滅多にないことです。

 この時の私の気持ちとしては、父様のいないこの場をどうにかしなければという責任感が半分、私が堂々と一家の先頭に立てるこんな機会はそうそう訪れないという高揚感が半分といったところでした。

「実は、昨日からバートヘンが村の周辺で見かけられているんだ」

 ウェルナーさんはゆっくりと静かに話し始めました。

「バートヘン?」

「グズリの一匹だよ」

「グズリ!」

 私は思わず声を上げました。

 グズリと言えば、森の中でもっとも注意しなければならない猛獣の一種です。注意と言ってもそれは注意であって、どんな熟達の狩人であっても不用意にグズリと対峙してはいけないと言われていました。

 しかし、グズリの脅威はその恵まれた体躯よりむしろ用心深さで、テリトリーの中ではほとんど無敵を誇る一方で、自ら進んで縄張りへ出ることはほとんどないともいいます。

「グズリと言ってもまだ子供でね。覚えているかな、去年の春先に手負いのグズリを討伐隊で狩ったことがあったろう」

「ええ、はい。あのときはお祭り騒ぎでしたから」

 ごくまれに、テリトリーを失って放浪するグズリが迷い出てくることがありました。そういったときには村の男手を結集して討伐することになります。ちなみに、グズリのお肉は部位によりますが基本的に筋張っていておいしくありません。

「あのときのグズリを、僕たちはバートという名前で呼んでいた。実はバートは母親だったんだ。バートは勇猛で、自分の命を引き換えにして、僕らの包囲網からまだ幼い一匹の子供を逃がした……」

 私は、今まで必死に守り抜いてきた我が子を見送る母グズリの姿を想像しました。

 自分の全てにも等しい最愛の母を置いて落ち延びる子グズリの涙を想像しました。

「その子供が、バートヘンというわけですね」

「そう」

 ウェルナーさんの声音にも行き処のない悲痛さが隠れていて、私にはそれが余計に悲しく思えました。

 互いに殺すか殺されるかという瀬戸際の場面で、そんな情はいっそない方がいいのです。相手にも家族がいると思いながら弓を引き絞れるでしょうか。その痛みを想像しながら心臓に狙いを定められるものでしょうか。すぐれた狩人に必要なものとは、極限まで研ぎ澄まされた鋭敏さと、限界まで削ぎ落とされた鈍感さであるはずです。

「つまり、バートヘンを狩るための人手が足りないと言うことですか?」

 ウェルナーさんは神妙な面持ちで頷きました。

「バートヘンはすでに村はずれの一家を襲っている。僕らに対する強い敵意があることは明らかだ。これ以上の被害を出さないうちに仕留めなきゃいけないけれど、警戒心が強いし、この雨のせいもあって後手後手に回ってしまっているという状況なんだ」

「なるほど。お話は分かりましたが、そういうことですと私たちにはどうにも……」

 この段になって、ようやく私は父様が町行きにカリーを連れて行った理由に得心がいきました。

 バートヘンの目撃情報を知っていたために、いつもなら一人で行くところを、単独行動を避けようとしたのでしょう。とはいえ、丸二日家を空けるのに私たちに何も言いつけておかなかったあたりをみると、父様はこれほど事態が急転することは想定していなかったようです。

「まあ、そうだね……」

 ひどくきまりが悪そうに、ウェルナーさんは歯切れ悪くそう言いました。

 もしここで、私が一応気を付けておきますとか何とか、当たり障りのない適当なことを言って帰るよう促していたら、きっと彼はそうしたでしょう。

 ですが私は、ウェルナーさんに別の意図があることも、それがどうしても口にしづらくてこんな風にまごついていることも、全て分かっていました。分かった上で家に上げ、こうして話を聞いていたのです。

 ですから、いくら私とても、果たすべき責任というものがあるでしょう。

「でしたら、父様の代わりに私が協力いたしましょうか」

 ウェルナーさんはぱっと表情を明るくして、それからまたすぐ曇らせました。表情が分かりやすくてかわいらしい方です。

「いいのかい。……いや良くないのだけれど……君にこんなことを頼むのは。でも今は一人でも手数が欲しいところだし」

「他に手がないのでしょう。だったら仕方がないじゃありませんか」

「そうだけれど」

「でも、怪我でもしたら父様にこっぴどく叱られてしまいますから。守りの方はどうかお願いいたしますね?」

 こうして半ば私が押し切る形で、話がついたのでした。

 責任感が強くて心根の優しい、だけどここぞという場面で思い切りが悪いウェルナーさんは、私が背を押すまで後にも先にも進めずにここで難しい顔をしていたでしょう。であれば、選択権は私にあるということです。

 こんな非常事態が目の前に迫っていて、黙って家に閉じこもっていることができるでしょうか? 

 できる方もいるでしょう。しかし私にはできませんでした。

「他に声を掛ける方は?」

「あ……、えと、あとフランツとユリアンに」

「では声を掛け終わりましたらまた来てくださいますか。準備に少し時間がかかるかもしれませんので、それから合流いたしましょう。詳しい状況などは向かいながらで」

「あ、ああ。分かった」

 ウェルナーさんの見送りも早々に、私は部屋から着替えを掴み取って、作業部屋の奥の倉庫へと足を向けていました。

 自前の弓はありませんから、廃材置き場を漁ってカリーの試作品―――あるいは失敗作でしょうか。まあ使えればどちらでもいいでしょう―――を拾い上げました。カリーと私は背丈や腕の長さが同じくらいなので、微調整して仕立て直せば扱いは悪くなさそうでした。矢はカリーのものをそのまま拝借すればいいでしょう。あの子は決して器用な方ではないので、もっといびつで整っていないかと思いましたが、意外にもかなりいい出来でした。その削りの丁寧さから、あの子がどれだけ精魂込めてこの矢を作ったかが分かって、私は急にあの子に悪いような気がしてきました。そこで狩りに出るための最低限の二本、できるだけ不揃いな二本を選んで、腰のベルトに挿しました。何度か弓を握って弦をはじくと、手のひらに伝わってくる振動やうるさめの弦音が記憶を掘り起こすような感覚にとらわれました。

 服は菜園いじり用の作業着を着ていくことにしました。私の手持ちの服の中では最も運動性能が高く、雨に対する耐性もあると思われたからです。難点を挙げるとすれば激しく動いた際の衣擦れの音が大きいのと、森の中での迷彩に適していないことでしたが、もとより森中を走って獲物を追うのは流石に身体がついて行かないでしょうし、夜の森では目が利きづらいでしょうから、さほど問題にはならないと判断しました。作業着だけでは寒さが堪えるかもしれないと思い、中に厚めの肌着を一枚を着ると、ちょうどよさそうでした。髪を邪魔にならないよう後ろの低いところで結い、薄手の皮手袋をはめると、ぐっと全身が引き締まる感じがしました。

 即席ながら準備のめどが立ったころには、すっかり目が冴えきっていました。ほんの半刻前までは眠気を感じていたことが嘘のようでした。

 血が騒ぐ、とはこういう感じなのでしょう。

 今の私にあるのは、狩人が森に入る前に感じる緊張感、そして高揚感だけで、その後のことも、その先のこともぼんやりと霞んでいました。きっと父様は怒るでしょう。大切な矢を使われたカリーも。母様は悲しんでさめざめと泣くかもしれません。でもそれは今は関係のないことです。

 革張りで撥水のいいブーツが、木の床を踏むごとに小気味いい音を立てました。

 ウェルナーさんは何をしているのでしょう。そろそろ戻って来る頃合いでしょうか。

 私は昂ぶり逸るばかりの心を覆い隠すために、雨除けのフードを深く被りました。外の音が遮られて、自分の鼓動の音だけがやけにはっきりと聞こえました。

 その心音さえ、やがて聞こえなくなりました。

「エリー」

 最後に弓を射ったのはいつだったか、遠い昔のことを思い出していました。

「はい。準備できてます。行きましょう」


 今夜の矢は、一本だって外す気がしませんでした。

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