天使の囁きとエルフの受難
浜真砂
第1話 奉納祭
精霊のようにきらめく光彩が満ちる森の奥深く、風待ちの断崖の脇、スミレの匂いがどことなく漂う場所に、私たちの村はありました。
村の名前はありません。
私たちはただ「村」と呼び、村を覆い隠して守り続ける森林を単に「森」と呼んでいました。
森がいつからあって、村がいつからあるのか、誰も知りません。少なくとも語る人は一人もいませんでした。それどころか、ほんの数世代前の人々のことさえ皆きれいさっぱり忘れ去っていて、もともと、私たちは記録を残したり過去を受け継いだりすることにほとんど頓着しない民族だったようです。
そんな村に、私は生まれ育ったのでした。
「すまない、エリー。手が空いていれば、矢じりを作るのを手伝ってもらえないか」
父様が半地下の作業部屋から大声で私を呼び止めたとき、私はいよいよ強くなってきた雨のために、家じゅうの雨戸を閉めて回っているところでした。
「はあい。すぐに行きます」
その日は、季節にしては例がないほどの豪雨で、いつもなら雨と聞けば外に出てびしょ濡れ泥だらけになって遊んでいる村の子供たちも、今日ばかりは親の言いつけを守って、家の中に避難しているようでした。
村の古老たちによると、この時期の大雨はその年の冬が暖かくなる兆しだそうです。暖冬は菜園を営む者にとって栽培可能期間が延びるのみならず、獣の冬眠を遅らせるので、狩人にとっても喜ばしいことでした。
雨戸を閉め終わると、やや寒々とした階段を降り、作業部屋のドアを開きました。
「お手伝いに来ましたよ」
湿気を含みながらもほこりっぽい独特の空気が肺に入り込んで、思わずむせそうでした。
「おお、助かるよ」
父様は椅子に座って、矢の柄が曲がっていないかを一本ずつ検査しているところでした。足元には、真っすぐの矢と曲がりのある矢がそれぞれ選り分けてまとめられています。
その真っすぐな方、木の実から採った油を丹念に塗りこめた矢は、とても消耗品とは思えないくらいの気品を備えていました。
「じゃあ頼んでもいいかい」
「はい、ただいま。それにしても父様ったら、そのほかのことは手も触らせないくせに、矢じりばかりは私に作らせるんですね」
私が少し意地悪めかして言うと、父様は鷹揚に笑って返しました。
「エリーの矢じりには幸運の加護があるからな!」
「調子がいいんですから。まあ、悪い気はしませんけれど」
父様に背を向けるようにして、カリーが机に向かって木の枝を削っていました。
私はこの気難しい弟にどう声をかけていいか分からず、しばし迷っていました。
このぐらいの年頃の男の子の多くがそうであるように、カリーもまた、打てばどう響き返してくるのか見当がつかないところがありました。その中でも特に、ここ最近のカリーは妙に当たりが強く、話しかけるのにもちょっとした心の準備がいるのでした。
「姉さん」
「えっ、うん。なあに」
いつまでも突っ立っていた私に、カリーはこちらに顔を向けないまま言いました。
「……早くドア閉めてくれない。風が入ってくると都合が悪い」
「あ、うん。ごめんね」
半地下の部屋には風などほとんど入りませんし、風があると何が都合悪いのかはさっぱり分かりませんでしたが、そんなことをあえて口にする必要などないでしょう。
「こら、カリー。姉に向かってなんだその言いざまは」
父様が厳しめの口調で言うと、カリーはほとんど独り言のように「わかったよ」とだけ呟きました。
こんな居づらい空気のときには、とかくさっさと作業に没頭してしまって、口を開くのは諦めるのが賢明です。私は小さな腰掛けを父様の近くの作業机に置き、そこに座りました。
作業机には物差しややすり、打石などの必要な工具類が揃っています。机の下に置かれた小さめの箱を引っ張り出してきて、中に無造作に入れられた燧石からいくつか適当に掴んで机の上に置きました。
「うるさい」
「カリー!」
どうやら、私が机に小石を置いた音が耳についたようです。この日のカリーはいつもに増して虫の居所が悪いようでした。
「私はいいから、父様。……カリーごめんね、できるだけ静かにするから」
カリーは返事ともとれなくはない鼻息を漏らしただけでした。
さて、手元の作業に目を移しましょう。
石片を矢じりの形にするのは、思ったよりも骨の折れる作業です。形にするだけなら慣れれば難しいこともないのですが、薄さや鋭さ、重さなど思い通りのものにするには技術が要りますし、そもそもどれほどの薄さや鋭さが最も良いのかは、使用者の癖や用途次第で少しずつ変わってくるのです。
こうした微妙なチューニングのためにも、本来、弓具の調達や手入れは原則使う本人が行うものでした。現に、父様とカリーはそれぞれが自分の弓を自分で用意していました。
ですが父様の矢じりは、昔から私の手製と決まっているのです。
「父様。一つ作ってみましたが、どうでしょう」
「どれ、見せてみなさい。……うん……よし、完璧だ」
試作の矢じりを色んな角度から眺めて、父様は満足そうに言いました。
それから足元にまとめられた矢の一本に矢じりを取り付け、流れるような動作で、部屋の反対側の壁に掛けてある試射用の的に射かけました。
ヒュイと軽やかな音とともに発射された矢は、寸分の狂いもなく同心円の中心を貫き、布張りの板に突き刺さっていました。狭い部屋に破裂音のような轟音が響きましたが、カリーは特に何も反応しませんでした。
「流石です」
父様は誇らしげに胸を張り、そのまま私のことを誇らしげな目で見ました。
「エリーの矢じりのおかげだな。これで来月の奉納祭には万全の態勢を臨めるだろう」
「奉納祭?」
私が聞き返すと、カリーが横から口を挟んできました。
「長老会が突然決めたんだよ。このところ異常気象やらの凶兆が立て続いてるとかで、狩り大会を開いて神さんにイケニエを捧げるんだと。迷信深い連中の考えそうなことさ」
「カリー。言い方というものがある。それに奉納祭が今年行われるのは暦どおりだ」
「何をどう言ったって、やることは変わらないだろ」
「心持ちの問題だ。おまえだって、これがただ決められた手順を踏めばよいというだけの儀式ではないことくらい分かっているだろう」
「……そんなことより、約束忘れないでくれよ。俺はそれさえ守ってくれればそれでいい」
カリーは憎々しげ小さく舌打ちをして言いました。
どうやら、二人が弓の手入れを始めたのは長雨で暇を持て余したからではなく、来月に奉納祭という狩猟の機会があるからだったようです。
その奉納祭というのがどういった祭事なのか、私は見たことも聞いたこともありませんでした。それどころか、行われるということさえこの時初めて知ったくらいでした。おそらく母様に聞いてみても同じことを言ったでしょう。
狩猟は男の領分ですから、女の私たちには関係のないことです。
「その、約束っていうのは?」
奉納祭にはそれ以上踏み込まないことにして、カリーの言った言葉が気になって尋ねました。
父様とカリーはお互いに様子をうかがうように、あるいは目配せするように何度か視線を交わし、やがてやや言いづらそうに、父様が私の問いに答えました。
「約束というのはね、……もしも奉納祭でカリーが私に勝ったら―――本来は勝ち負けがあるものではないんだが―――この家の家督を、カリーに譲ることになっているんだ」
「えっ」
私は少なからず動揺しました。
「でも、父様はまだお若いじゃないですか」
老いて体力気力の衰えた家長が、生前に子供―――大抵は長男―――に家督を譲り渡すことは、それほど珍しいことではありませんでした。
しかし父様は、確かに盛りは多少過ぎていたかもしれませんが、まだまだ壮年と言っていい年代でした。
「私も家督の相続など当分は先のことだと思っていた。だが約束は約束だ」
「母様はご存じなんですか」
「知らないだろう。言ってもしようのないことだ。これは私とカリーの問題なのだから」
こんなときでも冷徹に働く私の思考力は、父様の言い分が全く正しいと告げていました。しかしいつだって衝動のままに燃え盛る私の情緒は、そんなのは全然通らないと叫んでいました。
「カリー、あなたも一体どういうつもり……」
「うるさい!」
唐突な叫び声に、部屋の中はにわかにしんと静まり返りました。
天井近くの窓に打ち付ける大粒の雨音も、どこか遠く聞こえました。埋められた棺の中はこんな静けさなのだろうとふと想像しました。
「これはもう決まったことだ。今さら姉さんが何を言ってもひっくり返らない。あとは奉納祭ですべてが決まる。それでいいんだろ、父さん」
昔はこんな風じゃなかった、と想像の翼は自由に羽ばたきました。
小さなころのカリーは、いつも私の後ろをとことこと覚束ない足取りでついてきて、私は世話を焼くのに必死になったものでした。請われるままに弓を教え、怪我をしたら手当てをしてやりました。熱が出て倒れた日には、一日中そばにいて手を握ってやりました。
それが辛かったことなど一度もなくて、私はいつだって嬉しかったのです。
「カリーの言う通りだ」
父様はいくらか威厳を出して言いました。
「息子と言えど一度交わした約束を反故にすることは、私の信頼と沽券にかかわる。この約束は必ず守る。だが私は微塵も負けるつもりはないし、負ける公算もない。カリー。お前に家督は早すぎる」
「……早すぎるかどうかは結果が教えてくれるさ」
そう吐き捨てると、カリーは勢いのままに飛び出して行ってしまいました。
「……カリー」
私は去っていく彼の背中に、何も言うことができませんでした。
弟が道を踏み違えたとき、それを教え正しく導くのは姉の仕事です。実際に、私はカリーに対していつもそうしてきました。なのに今の彼の表情は、雰囲気は、まとう空気は、今までとは全く違っていました。今の彼には彼なりの道義があって、たとえそれが父様と対立したとしても、彼はそれを貫くと自分自身に誓っていました。そこに私が口を出せる余地など、少しも残されていないようでした。
それが私は少し、寂しかったのです。
「大丈夫だよ、エリー」
「父様」
「さっきの言葉に嘘はない。私は勝つよ。カリーに詳しく話を聞くのはそれからだ」
父様にはある種の言霊が宿っていて、父様が確信をもって口にしたことは、それがどれだけ不確かなことだったとしても、必ず現実になるのでした。
ですから、父様が勝つと宣言した以上は、父様は何があろうと必ず勝つのです。
「そのためにも、お前にはとびきりの矢じりを作ってもらわないとな」
私を髪をくしゃくしゃにしながら父様が言うと、私は不安なことなど何もないような気がしました。胸のつかえがすっと取れて、きっと何もかもうまくいくと思えたのです。
「はい。腕によりをかけて」
この奉納祭が迎えることになる結末を、この時の私は想像さえしていませんでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます