第30話 証拠不十分

 夏の明かりに虫が集まるように、夜の水辺に蛍が飛び交うように、人が集まるところにも人を寄せ付ける何かがあるものです。たとえそれが良しにしろ、悪しきにしろ。


 網の目のように走る街路に眩暈を起こしながら人の多い方を目指してゆくと、大通りから少し外れたところに人だかりの中心がありました。

 近づいてみると、人混みは何かを遠巻きに見るようにして取り囲んでいました。

「な、何だかちょっと怖いですね……」

 まだ中心にあるものは見えませんが、セシリエの言う通り、あまり穏やかな雰囲気ではなさそうでした。ざわざわと遠巻きに様子を窺うような人垣の奥から、自然と張り上げたような声が聞こえてきます。

 どうやら、誰かと誰かが言い争っているようです。

「……だから! うちはそんなケチなことしてないって言っているだろ!」

「しかし、ジェレミーの持ち込んだパンには確かにお前の店の焼き印が押してあったぞ」

「何かの間違いだ!」

「ではジェレミーが虚偽の通報をしていると?」

「そこまでは……。せめて現物を見せてもらわないと」

「そんなことを言って、証拠を隠滅するつもりじゃないのか? 油断ならないな」

「なんだと!」

 口論しているのは、仰々しい服を着た小太りの男と、まだ幼さの残る、しかしその割に芯の強そうな少年です。

 少年は怒り心頭といった様子で、今にも相手に掴みかかりそうな勢いです。小太りの男の方はいやらしそうな笑みを浮かべ、そんな少年の反応を楽しんでいるようでさえありました。

「マルセル……!」

 状況を見たセシリエが、顔を蒼白にして呟いたのが聞こえました。

「まあいい。何にしろ規則は規則だ。パンに混ぜ物をした罪、証拠隠滅を図った罪、そして代行人の業務を妨害した罪。まとめて罰金を払ってもらおうか」

「払えるわけないだろ! この間うちのパンを証拠品とか言って全部没収していったのはあんたらだぞ!」

「罰金の支払いを拒否した罪をプラス、と。あまり余計な口を利かない方が賢いと思うがね」

「黙っていたらうちの床板まで持っていくつもりだろ、あんたらは」

「それはお前次第だよ、マルセル。俺だって本当ならこんなことしたくないんだ。でもお前が不出来なパンを売ったりするから」

「だからそんなことはしてない!」

「そうなのか」

「そうだ!」

「ではやっていないとしよう。やっていないとしよう。では誰だ? この俺の手元にある混ぜ物のあるパンを焼いたのは? もしギルドに所属していない人間にパンを焼かせたのだとしたら、今度は罰金では済まないぞ」

「……さあ。ロベルトという男が怪しいと聞いたことがあるが」

 マルセルと呼ばれた少年が、わざとうそぶくように言うと、小太りの男は激昂して靴のかかとでマルセルの足先を踏みつけました。

「ッた……」

「ロベルト『監督代行』だ。何度言っても覚えん奴め」

「……あんた以外にその言葉を使っている奴を見たことがないからな」

「言うではないか。俺はさっき確かに警告したぞ。余計な口を叩くのは賢いやり方ではないとな!」

「うぐっ」

 ロベルトというらしい男は、少年の足を踏みつけたまま、手に持った杖をマルセルに叩きつけ始めました。

 ばん、ばん、と鈍い音が何度も響きます。

 ロベルトには運動の習慣がないようで、杖は腕で無造作に振るうだけで、一撃の重さはさして強くなさそうです。しかしマルセルの少年の身体には痛いでしょうし、何より一方的に殴られるのは身体以上に心が傷つくでしょう。

「今日は一段とひどいわね……」

「マルセルもかわいそうに……」

 そんな痛ましい光景を目の前にしても、周囲の観衆は傍観を決め込んでいるようでした。

 断片的に話を聞くだけでも、ロベルトという男がただものではないことは分かりました。きっと、この件に不用意に関わってもろくなことにならないのでしょう。それが分かっているから、マルセルに同情しながら、誰も手を差し伸べないのです。

「マルセル……」

 おろおろと所在なさげに狼狽えているセシリエに、私は顔と顔を寄せて小声で話しかけました。

「セシリエさん、お知り合いですか」

「は、はい。マルセルは私の……私の友達なんです」

 セシリエが迷いながら言った「友達」という言葉には、私の知らない特別な意味が込められているような気がしました。

「どうしますか。すこし手を出しにくい雰囲気ですが」

「エリーゼさんにご迷惑をかけるわけには……でも放っても置けないし……。ふえ、お父さんがいてくれたらなあ……」

「……もう少し、様子を見ましょうか」

 ここにマティスがいたら、迷わずに飛び出していって、あのロベルトを一発殴って叱り飛ばしたでしょうか。

 それが正しいことかはわかりません。ただ、そう思うと、私はここを黙って離れることがどうしてもできなくなってしまったのです。

「くっ……この、この野郎!」

 その時、ずっと暴力に耐え忍んでいたマルセルが、とうとう我慢できなくなったようでした。

 踏みつけられた足を引き抜き、そのまま逆にロベルトの足を踏みつけたのでした。

「なっ。お前何を……うわっ」

 ロベルトは、足元がぐらついて体勢を崩します。

 杖がちゃんと地面についていれば支えになったでしょうが、杖を振り下ろすことに夢中になっていたロベルトはそれもかなわず、そのまま蛙がひっくり返ったように地面に転びました。

 静かな観衆の中から、かすかな笑い声が洩れました。

「……てめえ、人が手加減してやっていれば図に乗りやがって」

 ロベルトはみるみる顔を真っ赤にして、マルセルを睨みつけました。

 すぐに立ち上がり、仕返しとばかりにマルセルを突き飛ばしたかと思うと、馬乗りになるようにしてマルセルに覆いかぶさりました。

 そして、顔をマルセルの顔に近づけ、耳打ちするように言います。

「今までお前のことは気にかけてやってたんだぜ。なのに恩を仇で返しやがって。もう許さねえ。二度とトロエスタで店を開けると思うなよ」

「……………」

「馬鹿なやつだ。大人しく殴られていればよかったのに。やっぱり、風邪で逝っちまう情けない男と、商売のやり方も知らねえ馬鹿な女の間の子ってことだな」

「……!」

 いくらロベルトが愚鈍と言えど、マルセルとの体格差は歴然です。本気で組み敷かれてしまえば、少年の腕にはどうにもならないでしょう。

 ロベルトは野卑で引き攣った笑みを浮かべ、マルセルに向けて拳を振り上げました。

 これがこの男の本質なのでしょう。権威と暴力で人を支配しようとする低劣な欲望、意に添わぬものを踏みにじり一顧だにしない暴虐、それを臆面もなく居直って押し通す無恥。


「やめなさい」


 私は人混みを飛び出して、ロベルトの腕を掴みました。

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