第31話 通行証
「な、なんだお前は」
私はロベルトの腕を掴み寄せ、強引にマルセルから引き離しました。衆人環視の焦点が、マルセルから私へと移ったのが肌で分かりました。
こんな風に目立つつもりはなかったのですが、もう仕方がありません。こうせずにはいられなかったのです。
「取り消しなさい」
私が言うと、ロベルトはたじろぎました。
「なんだ急に、俺を誰だと思って」
「取り消せと言っているんです。彼に吐いた暴言、侮辱、その他聞くに堪えない発言のすべて、彼の目の前で取り消しなさい」
「い、一体何なんだお前は!」
ロベルトは身体をよじらせて、私の手から腕を振りほどきました。
マルセルに対しての時と比べて、彼の態度は明らかに弱気でした。恐らく、私の方が背が高く体格がいいからでしょう。
森の獣はどれほど獰猛でも、自分より大きな相手にはそう食ってかかりはしないものです。人間もまた、街に棲む獣ということでしょうか。
「俺を誰だと思ってる。市場監督代行だぞ!」
ロベルトは特にプライドの高い獣のようでした。縄張りを荒らされるとひどく怒るところも獣にそっくりです。
「生憎ですが私は旅人です」
「お前がどこの人間かなど知ったことか! 監督代行の腕を掴んだということは、監督の、ひいては市長の頬を叩いたことと同義なんだ。この罪は重いぞ」
「ではどうしますか。私の足でも踏んでみますか」
「そんなチンケな嫌がらせで済むと思うなよ。おい、……おい! そこの衛兵! こっちに来い!」
ロベルトは道の向こうを歩いていた男を呼び寄せました。
通りの向こうを歩いていた、暑さの割に着込んだ健康そうな若い男は、ロベルトを認めるとややうんざりした顔をして、しかし命令通りに小走りでこちらへと近づいてきました。
「はい、今日はどうしましたか、監督代行?」
「こいつだ。こいつが俺の仕事を邪魔した上に、俺に手を上げやがった!」
「はあ」
彼は奇異なものを見る目で私を見ました。
そして私がこの街の人間でないことに気付くと、彼の目には同情の色と、面倒なことに巻き込まれたなという煩わしさの色が滲みました。
「どうした、早くこいつを裁判にかけてくれ。監督代行に暴力を振るったんだぞ」
「えー……恐れながら監督代行。裁判を執り行うには所定の手続きを取る必要がありますので、今すぐというわけには」
「なに眠いことを言ってるんだ。今さっき殴られたのを見ていなかったのか」
「残念ながら。……ではどなたか、この方が監督代行を殴打した場面を目撃した方はいらっしゃいますか?」
若い男が視線を巡らせながら、野次馬たちに問いかけます。
興味津々で騒動の行く末を見守っていた人々は、示し合わせたように、視線を逸らして白々しくとぼけました。
「目撃者はいないようですね。となると規則通りの手続きを取ることになりますが……」
「し、仕方がないな。規則を守るのも善良な市民の義務であるし」
「流石、おっしゃる通りです」
ロベルトはそれ以上ゴネることなく、すんなりと承諾しました。
きっとこれが、このロベルトという男に対処するためのこの街のやり方なのでしょう。若い男がロベルトに見えないようこっそりと安堵の息を漏らしたのが見えました。
「というわけでして、すみませんが身分証を見せていただけますか」
若い男は、口調は極めて慇懃に、しかし視線で妙な圧をかけながら私に尋ねました。
「身分証?」
「名前などが分かる書面です。ギルドの加入証、納税証書、家の賃借契約書……何でも結構です」
「それが、この辺りの人間ではなくて」
「旅人でしたか。でしたら通行証をお願いします」
「それも持っていなくて……」
「えっ」
若い男はそこで少し困った顔をしました。
通行証というものが何か、私はよく分かっていませんでしたが、どうやら持っていないとまずいものだったようです。
これ幸いとばかりに、ロベルトが意気揚々と追及の声を上げました。
「そんなはずはない。通行証がなければ関所を通れないだろう。それともなんだ、まさかもぐりの旅人か? だとすればこれは暴力沙汰どころの騒ぎではないんじゃないのかね」
「うーん……。そうですね……」
若い男は言い淀みました。
その言い淀みが、ロベルトの言っていることが正しいと認めているようなものでした。
しかし持っていないものはどうしようもありません。そもそも存在を知らないのですから、下手に言い逃れしてもかえって墓穴を掘るだけでしょう。
視界の端に、人混みの中からセシリエが心配げな顔をのぞかせたのが見えました。もし私が名を呼べば、彼女は私のために名乗り出てくれたかもしれません。しかしこの状況にセシリエを巻き込むことは私の為にも、彼女のためにも得策とは思えませんでした。
「あら、エリーゼ。ここにいたのね。探したわよ」
腹をくくるしかないと思ったその時、狙いすましたようなタイミングで―――あるいは本当に狙いすましたタイミングで―――彼女は現れました。
「ルチア!」
「もう、エリーゼったら、ちょっと目を離した隙にいなくなるんだから。……それで、これはどういう状況なのかしら?」
もう数日は姿を見ていないルチアは、まるでついさっきまで一緒にいたかのような自然さで、私とロベルトたちの間に割って入りました。
「―――ふうん。なるほど。要するにこの子が通行証を持っていなかったのが問題というわけね」
「その通りです」
「だったら話は解決よ。エリーゼはよく物を失くすから、彼女の分の通行証も私が預かっているの」
そう言って、ルチアは内着のポケットから二枚のカードのようなものを取り出しました。
「はい、これでいいかしら?」
私が初めて見るそれを、若い男が受け取り、まずルチアの顔と見比べます。
「えー、では確認させていただきますね。こちらが……ルチア・ルインさん」
「はい」
次に私の顔を見て、
「そしてこちらが、エリーゼ・ノイマンさん」
「……はい」
「確かに拝見いたしました。お返しします」
「どうも。それで、私たちこれから少々急ぎの用があって明日にも発たねばならないのですけれど、大丈夫かしら」
「そうでしたか。ご苦労様です」
若い男は心なしか溌溂と、背筋を伸ばして言いました。
「そちらこそ、お勤めご苦労さま。ではこの辺りで失礼させていただきます」
「お気をつけて」
ルチアは半ば強引に話を終わらせると、身を翻して歩き始めました。
話についていけていない私は、慌てて後を追います。後ろでロベルトが何かわめいて、若い男が言い諭している声が聞こえました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます