第32話 パン屋マルセル

「さて、何から聞きたいかしら?」

 宿屋のベッドに上着を放り捨てながら、ルチアは前置きを省いてそう言いました。

 テオに口利きをしてもらったこの部屋は、一人用の大きさのベッドが一つだけ置いてあります。

 私とセシリエの二人くらいならば身を寄せ合って何とか眠れるかと思っていましたが、ルチアもいるとなると別のやり方を考えなければならないでしょうか。私はぼんやりと考えていました。

「どうしたの? 訳も分からずさぞ困惑しているだろうと、気を利かせたつもりなのだけど」

 ルチアは不服そうな顔で私を見ました。

 自分はほしいままに振る舞うくせに、私には思った通りの反応を求めるのは、わがままというものではないでしょうか。しかしそんな仕草も、今はどこか懐かしく感じてしまうのでした。

「いえ、確かに分からないことは色々とあるのですが。……何でも聞いていいんですか」

「ええ。どうぞ」

 ルチアはベッドに腰を掛けました。綿の詰まったマットレスが、ルチアの体重を受けて沈み込みました。

「では。……一体今までどこへ行っていたんですか」

「え?」

「書き置きの一つも残さずにいなくなったら、心配します。それも、すぐに帰ってくるのかと思えばこんな何日も」

「開口一番にそんなことを言われるとはね。……いえ、私が先に謝るべきだったかもしれないわ」

 私の恨み言めいた質問に、ルチアは面食らったようでした。

 いつもの彼女なら、私が何を言っても何処吹く風とばかりに聞き流していたでしょう。そんな彼女の奔放さにうんざりする日もありますが、しおらしく反省されるとそれもまた居心地が悪いのでした。

「別に謝ってほしいわけじゃ」

「あなたが私のことをそんなに恋しく思ってくれていたのは意外だったけれど。こう激しく想われるのも、案外悪くないわね」

「……まあ、それくらいの方がいいです」

 やはりルチアはルチアでした。

「それで、実際どこへ行っていたんです。どうやって私たちの居場所が分かったんですか? まさか隠れてずっと見ていたなんてことは……」

「あなたは私を一体何だと思っているのかしら?」

 そう言って、ルチアは二枚のカードのようなものを取り出しました。

「これを調達していたのよ。思ったよりも時間がかかってしまったのは予想外だったけれど」

「これは、通行証……でしたっけ」

「そう。これがないと不都合なことも多いでしょうから。さっきみたいにね」

「はあ……」

 ルチアに渡されたそれを、まじまじと見てみたり、感触を確かめてみたりしても、私には今一つ実感がわきませんでした。

 こんな板切れ一つで何が変わるものでしょうか。いえ、確かにロベルトには効果があったようでしたが。

「それは、こんな板切れ一つで何ができるんだ、って顔ね。まあ、あなたの言い分も分からなくはないけれど」

「勝手に人の心を推し量らないでください」

「違ったかしら?」

「違いませんけど」

「なら話が早くていいじゃない。……その辺りは、少し時間をかけて慣れていく必要があるかしら。人の社会は、一見無意味に見えるもので回っているのよ」

「そういうものですか」

 未だ得心のいかない私に、ルチアは生温い眼差しを向けました。

 そして私から微妙に視線をずらして、

「そういうものよ。……あなた達もそう思うでしょう?」

 私の肩越しに、部屋の入口の方へと声を掛けました。

 やや躊躇するような間があって、ドアが控えめに開いて二つの小さな人影が入ってきました。

「立ち聞きとは、なかなかいい趣味をしているようね?」

「す、すみません」

 セシリエが恐縮しきった声で言います。

 二つの人影のうち片方はセシリエでした。そしてもう片方は、目深にかぶった帽子で顔が見えにくいものの、その幼さと凛々しさで、マルセルだと分かりました。

 マルセルはセシリエとは対照的に、毅然と胸を張って私たちに向かって立って言います。

「申し訳ありません。盗み聞きするつもりはなかったのですが、話し込んでいらっしゃるようでしたので、ノックのタイミングを逸してしまいました。ただ、全ての責任はこの僕にあります」

「冗談よ。相変わらず頭が固いわね、マルセル」

 ルチアが手で椅子へと促すと、マルセルは私に伺いを立てるような視線を送ってきました。

 私が立ったままなので遠慮したのでしょう。私が頷くと、マルセルは逆に私に対して正面を向けて背筋を伸ばしました。

「初めまして、マルセルと申します。先ほどは助けていただき、本当にありがとうございました」

「え。ああ、さっきのことなら気にしなくていいですよ」

「そういうわけにはいきません。僕が不甲斐ないばかりに、あなたを危険に巻き込ませてしまった。そうでなくとも、あなたが助けてくれなければ今頃はひどいことになっていたでしょう。このお礼はまた必ず」

 私が初めて出会うタイプの人物にどぎまぎしていると、ルチアはそれを見て可笑しげにけたけたと笑っていました。

「マルセルに恩を売ると絶対に返すまで付きまとってくるから、腹をくくった方がいいわよ。明日の朝食のパンでもごちそうしてもらいなさいな」

「それくらいならお安い御用です」

 マルセルは気が済んだようで、ようやく椅子に腰を下ろしました。私も胸を撫で下ろしました。

「それであなた、ロベルトに喧嘩を売ったのですってね。いやはや、大した胆力に感心するわ」

 ルチアがマルセルに対して言いました。

「向こうから因縁をつけてきたんですよ。こっちからは挨拶だってしません」

「でしょうね。あの男は完全にあなたに目をつけているもの」

「最近はどんどんやり方がエスカレートしてて、……今日は本当に、とうとうダメかと思いました。ですからエリーゼさんには本当に感謝しているんです」

 マルセルはそこでようやく、硬くこわばらせた表情を綻ばせました。

 その顔の奥に滲む不安と心細さを見れば、彼がいかに普段周りに気を張っているのかが分かるような気がしました。

「あんな場面を見れば、誰だってああします」

 私が率直な気持ちで言うと、マルセルは一層寂しげに、

「そうですね……」

 と呟きました。

 その呟きに、何か重大な言外の意味があるように感じられて、私はルチアに視線を送りました。

「ロベルトという男はね、この街ではちょっとした重要人物なのよ」

「確か、監督代行……と言っていましたか」

「そう。市場の最高責任者が市場監督。そしてこのトロエスタは年市を中心に発展してきた、市場の街なの」

「それって……」

「そうね。町で一番偉い人、と言っても過言ではないかしら。まあ、あくまでも一般市民にとっては、ではあるけれど」

 一番偉い人というのは、森の村でいうところの長老でしょうか。

 その長老が、あんな棒にもかからないような俗物だというのです。その失望は筆舌に尽くしがたいものがありました。

「あいつはそんな大層なものじゃない」

 マルセルが忌々しげに吐き捨てました。

「あいつが代行になってから、あっちもこっちも筋の通らないことばっかりだ。あいつに金を渡せばどんなもまかり通るし、あいつに嫌われれば店をたたむしかない」

 その声音には隠す気もない憤懣が満ちていて、静かに流れ出した言葉はやがて激流のように激しくあふれ出しました。

 当たり前でしょう、見ていただけの私ですら、声を上げずにはいられなかったのです。当人である彼の内心の穏やかならぬことは、察するに余りあるほどです。

「……どうして誰も声を上げないんです。さっきも、周りにはたくさん人が集まっていたのに、どうして誰も助けの手を差し伸べなかったんでしょう」

 私の発した素朴な問いは、マルセルの失笑を買いました。

「あいつに目をつけられたくないからですよ。知らないうちに尻尾踏みたくないから事の顛末は見ておきたい、でも下手に手を出せば今度は自分の番かもしれない。あの男はそういう言いがかりを平気でつけてくる男です」

「……すみません」

 彼の気迫に圧されて私が謝ると、マルセルは我に返ったように首を振りました。

「こちらこそすみません。街のみなさんはいつもよくしてくれるんです。父さんから受け継いだ店を今でも続けていられるのは、みなさんがあいつに見つからないようにご贔屓にしてくれるからですし」

「お父さんから?」

「はい。僕の店……ブランシェ通りのパン屋なんですが、去年までは父さんと一緒にやっていたんです」

 その話をした辺りで、マルセルの顔に濃い影が差し始めました。

 今まで満ち満ちていた憤怒の色が、もっと深く暗い悲しみの色に塗り替えられていきます。幼さの残る少年の顔には似つかわしくない色です。

「え、エリーさん」

 今までずっとマルセルの後ろで黙っていたセシリエが、急に声を張り上げました。

「ま、マルセル、さっきで怪我してるみたいで、まだちょっと調子が良くないみたいなんです。少し失礼してもいいでしょうか」

「そうだったんですね、すみません。気付かなくて」

「い、いえ。……少し席を外させてもらいます」

 そう言って、セシリエがマルセルを伴って部屋の外へ出ていくのを、私は何とも言えない気持ちで見送っていました。

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