第8話 前兆

 どうやら、この世には私の知らないことがたくさんあるようです。


「エリー、こっちの洗濯物は干し終わったわよ」

「ありがとう、じゃあ中で母様のお料理を手伝ってもらえますか」

「分かったわ」

 ルチアが私の前に現れてから十日ほど経ったでしょうか。私はすっかり彼女のいる風景に慣れてしまいました。

 私だけでなく父様も母様も、驚くほどすんなりとルチアのことを受け入れて、まるでずっと前から私たち家族の一員だったかのように、ルチアはこの家の生活に溶け込んでいるのでした。

「私の顔に何かついているかしら、エリー?」

「……いえ。もしも母様が私を呼んでいらしたら、すぐに行くと伝えておいてもらえますか」

 なのに、ルチアは初めて出会った時と変わらず、ここじゃないどこかの香りがするのです。

 それが不思議で、私はつい彼女のことが気になってしまうのでした。

「そういえば、ご令弟はどちらに? 朝から姿が見えないようだけど」

 ルチアが去り際に言いました。

 この家にすっかり馴染んだかと思ったルチアですが、ただ一人カリーだけは、頑なに心を閉ざしたままでした。

「さあ……。また森の中を駆けずり回っているんじゃないでしょうか」

「はあ。私、あの人に嫌われているのかしら」

「カリーは少し偏屈なところがありますから。……それに、避けられているのはルチアじゃないかもしれないですし」

 私が小さく呟くと、ルチアはよく聞こえなかったという風に手を耳にあてる仕草をしました。

「いいえ、なんでも。もうすぐこっちも終わりますから、先に行っていてください」

 実際のところ、カリーが避けているのはルチアではなく、この私であるような気がしてならないのです。

 少し前からカリーが私のことを煙たがっていたことは知っています。それはただの年相応の一過性のものだと思っていたのですが―――思おうとしていたと言うべきでしょうか―――先日のグズリ狩りの一件によって、いよいよ彼の心の壁は厚く高くなり、私に対して一切の接触を許さないほどになってしまったのでした。

 勝手にカリーの弓矢を使ったこと、その謝罪をする前にカリーがそれを見咎めたこと、それだけでもカリーを怒らせるには十分すぎたでしょう。

 しかし、私の想像が正しければ、彼の逆鱗に触れたのはもっと別の、私にはどうしようもない部分だったのです。

「……………」

 ルチアは立ち尽くしたまま、私の方を見ていました。

「私の顔に何かついていますか、ルチア?」

「いや、ちょっとね」

 ルチアは何かを言おうとして、思い直したように口を閉じるということを何度か繰り返しました。そしてとうとう、

「仲直りは早めにするのよ。どういう形であれね」

とだけ言って、私の返答を待たずに去っていきました。


 *


 母様は病気を患っていたようでした。

 ようでした、というのは、それ以上のことをよく知らないからです。母様とは毎日お話をしていましたし、身の回りの世話も私の役目でしたが、母様が具体的にどんな病で、どれくらい重篤なのか、私はほとんど知りませんでした。

 その日も、根菜と香草を使ったささやかなお昼ごはんが終わると、母様はまた体調がすぐれないようで、早々にベッドに入って眠ってしまわれたようでした。

「ソフィーはもう寝てしまったか」

「父様。はい、つい先ほど」

 母様の病気について、父様ならば何か知ってはいたでしょうが、あえて話そうとしないので、私も気が引けて聞かずにいました。

 父様は何となく、背中で物を言うのが得意な方でした。

「お前の方は大丈夫かい、エリー」

「私ですか? ええ、特には……」

 何のことを言っているのか分からずに、私は曖昧に首をかしげました。

 私に限らず、母様以外の家族はみな身体が丈夫で、病気や怪我はもとより、ちょっとした体調不良も滅多にありませんでした。

「だったらいいんだ。なに、この間のことで無理していないかと思ったんだ。雨の夜には自分で思っている以上に体力を消耗するから」

「そういうことでしたら、はい。もうすっかり本調子です」

「はは、頼もしいな」

 父様は乾いた笑いを作りました。

 背中が雄弁に物を言う分だけ、父様は嘘をついたり本心を隠したりするのがひどく不得手です。今も、父様が何か言いかけた言葉を飲み込んだのがはっきりと分かりました。

 そういう時に見て見ぬふりをするかどうかは、少し悩みどころです。

「エリー。今、時間あるかい」

 私が悩んでいると、今日は父様の方から心を決めたようでした。

「はい」

「少し話をしたい。もしかしたら、ちょっと長くなるかもしれないが」

「大丈夫です。そうだ、折角ですからお茶でも淹れましょうか」

「その必要は、……いや、そうしてもらおうかな。裏庭のテーブルまで持ってきてくれないか」

「裏庭のですか?」

 私はつい聞き返しました。

 裏庭には確かに小さなテーブルがありましたが、それは菜園いじりの時のちょっとした作業や荷物置きに使っているもので、使えなくはありませんが、あえてそこを選ぶ理由は分かりませんでした。

「あそこは土とか汚れていますし、他の場所の方が」

「構わない。わけは向こうで話そう。俺も用を片付けてから行くから、急がずに準備してくれ」

 父様はそう言って、どこかへと足早に去っていきました。

 去っていく父様と入れ違いに、ルチアが廊下の陰からひょっこりと姿を現しました。

「お忙しそうね」

「ルチア。いつからそこに」

「少し前よ。それより、もしかして面白そうなところに居合わせてしまったかしら」

 果たして本当に偶然居合わせたのかは分かりませんが、ルチアは妙に興奮気味でした。

「面白いことかどうかは分かりませんけれど。父様がこんな風に私にお話だなんて、珍しいといえば珍しいですね」

「それはとっても面白そうね。どうかしら、私も横でお話を聞いていても?」

 ルチアは形だけで私に尋ねました。

 私もだんだんと彼女のことが分かってきて、こういう時のルチアは拒否しても無駄なのだと、悟れるようになりました。

 もし私が嫌だと言っても、ああだこうだと言いくるめて結局ついてくるつもりなのです。それが分かっていれば、対処も覚悟もできようというものです。

「私の一存では決められません。父様に聞いてみないと」

「じゃあアルフレッドに聞いてみるわ。お礼というわけじゃないけど、お茶を淹れるの手伝うわよ」

「いいですよ。そんなに手間はかかりませんから」

「そう? じゃあ先に行っておくわね」

 ルチアは裏庭の方へと足早に去っていきました。

 台所でお湯を沸かしながら、私はぼんやりとルチアと父様のことを考えました。

 先ほどのルチアは、父様に拒否されるとは微塵も考えていないようでした。しかし、彼女と父様はそこまで仲が良かったでしょうか。母様とは何度か話し込んでいるのを見たことがありますが、私の知る限り、ルチアと父様はまともに会話もしていないはずです。

 さらに不可解なのは、それにもかかわらず父様とルチアはどこか通じ合っているように見えたことです。この家でルチアが生活しているのも、父様が容認しているからにほかなりません。それ以外にも、私の与り知らぬところで、二人は言葉でない何かで理解し合っているように思えてならないのでした。

「父様、母様……」

 私は不意に不安になったのです。

 私が知っている今までのこの家が、この村が、決定的に変わってしまうような気がして、私は怖くなったのです。何もかもが変わってしまった時、私は一体どうなってしまうのでしょう。


 お湯の中で乾いたハーブの葉がゆっくりと開いていくのを、私はしばらくの間、呆然と眺めていました。

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