第19話 閑話

「今日という日が二度とは来ないことを、いったいどれだけの人が知っているのかしらね」


 特に脈絡も前置きもなく、ルチアはごくありふれた世間話のようにそう切り出しました。

「……なんですか、急に」

「何って他愛ない雑談よ。することがなくて暇だし、陰気な顔して黙っていると気が滅入るわ」

「はあ」 

 どうやら私は、気が滅入るほど陰気な顔をしていたようです。

「……あまり気が晴れそうな話題だとも思えませんが」

 ただでさえ、私の心は陰鬱に曇っていました。それも空を覆い尽くす雷雲と同じように、自分の力では如何ともならない、ただ過ぎ去ることを祈りながら耐え忍ぶしかない、そういう種類の陰鬱さです。

 ですから、陰気な顔をしているから気が滅入るのではなく、気が滅入っているから陰気な顔をしていると言うのが正確な言い方でしょう。私の憂鬱に付き合わされるルチアを可哀そうに思わないわけではありませんが、どうにもならないものはどうにもなりません。

 もとより私だって、彼女に一緒にいてくれと頼んだ覚えはないのです。

「無理して能天気な話題を出すよりはましでしょうよ。それで、雑談なのだからせめて相槌くらいは打ってほしいところね」

 そんな私の思いを察する気配もなく、ルチアは泰然としたまま言いました。聡さと鈍さを思うがままに使い分けられるのは長所と言うべきでしょう。あくまでも本人にとってのですが。

「……さあ、どうでしょう。でも、大抵の人は知っているんじゃないですか」

「そうね、ほとんどの人は知っているでしょう。ただ、知っているということと分かっていることは別の問題よ」

「……………」

 いったいルチアが何の話をしたいのか分からず、私は閉口しました。

「人の一生なんて短いものよ。こぼれたミルクを嘆いている間にも年老いて、水の泡がはじけるように消えていく。その刹那の一瞬しか知らない人が、どうして『二度と』なんて永遠を語ることができるのかしら」

 時折、ルチアはこういう屁理屈を言うのです。

 きっと観念的な話をするのが好きなのでしょう。いつもであればそんな暴論空論にも多少は付き合ってあげるのですが、今日はどうにもそんな気分になれませんでした。

「にも関わらず人は簡単に永遠を語るわ。それも今日と同じ永遠ではなく、今日ではない永遠を。それって不思議なことじゃないかしら。手元しか見ることのできない者が、その実最も遠くを見つめているなんて」

 私が興味のないことを暗に言おうと視線を落としても、ルチアはお構いなしに続けました。

「一つ昔話をしてもいいかしら。以前ある町で出会った人の話。その人はある山を―――その山は領主の禁足地だったのだけど―――何十年もの間、一人で絵に描き続けている老人だった。ある時には日暮れのシルエットだけを捉えた単純な絵、ある時には山肌の小さな木の葉さえを捉えた繊細な絵。なかなかどうして大したものだった。ある時、その老人は私が旅人だと知ると、山の裏側の様子を見てきて教えてほしいと頼んできたの。裏側へ回るには険しい尾根を越えなければならないから、その老人は見たことがなかったのね。絵心はないからと断ったら、見た通りに口で伝えてくれればいい、と言うの。それで、私の報告を聞いた彼は、数日後にはまさに私が見たままの絵を描き上げていた」

 今日のルチアは、いつもよりも少しだけ饒舌なようでした。

「私が率直に絵の出来を褒めると、彼は自分でも手ごたえがあったと胸を張って、それから悲しそうに肩を落とした。わけを問うと、『心のどこかで、あの山の裏には見たこともない神秘的な何かがあるような気がしていた。描き上げた絵にはそれが少しもない。あの裏側もこちら側から見えるのとそう大して変わらないと分かって、がっかりした』と。彼にとって、山の裏側は決して見えないからこそ心惹かれるものだったのね。私はそれを知らずに見たものをありのままに伝えて、彼の空想を台無しにしてしまった……」

 ルチアの話がどれほど真実かは分かりません。

 もし彼女が嘘や誇張を混ぜたとしても、私には判別がつかないでしょう。

「話の本筋からどんどんずれていっていませんか。別に、構わないのですけど」

 何も言わずにいるのもきまりが悪くて、私はそう言いました。

「そうかしら。そうかもしれないわね。ごめんなさい」

「別に構いません。独り言なら、どうぞ好きなだけ」

「私がこんなに長々と独り言を言うようなタイプだと思っているのかしら?」

「それなりに」

 ルチアは安堵交じりの嘆息をこぼして、私の方を見ました。

 彼女が私を励まそうとしていることは分かっていました。それ自体は悪い気分はしなかったのです。たとえどんなに空回っていたとしても。

 それでも、いえだからこそ、その涙ぐましい努力が、私には哀れに思えてしまうのです。彼女のどんな心遣いも、私の心には決して届かないように思われるのでした。

 幼い頃、町から帰ってきた父様が、旅芸人の人形遣いの話をしてくれたのを思い出しました。

 人形遣いが糸で人形を操り、まるで生きているかのように動かすと言っていました。人形遣いがこっそりと声を当てて、まるで喋っているかのように振る舞わせるのだと。今の私は人形遣いでした。私の身体を、まるで生きているかのように動かしているのです。

「私が言いたかったのはね、エリー。人には想像力があるということよ。それはきっと人自身が思うよりも、ずっと優れた能力だと思うの。幻と現の垣根を超える能力。あり得ない世界とあり得る世界を一つの地平線に乗せる能力。卵の裏表をひっくり返すような能力よ。私はね、これこそが人だけが持ち私たちが持たなかった力なんだと思っているの」

「はあ、そうなんですか……私たち?」

 ほとんど聞き流していた私が、気になる言葉について尋ねようとした時、ちょうどタイミング悪く部屋のドアを叩く音が重なりました。

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